感覚のエスノグラフィー:その方法論等の検討
Ethnography of sensory experience:
the methodology
Acknowledgement; This work was supported by JSPS KAKENHI Grant Number 21K18363.
【課題】——感覚現象に関する記述の具体的な収集について あなたの研究対象地域(地域・国・地方・コミュニティ・あるいは連続体)で、研究期間のあいだで得られた情報(フィールドデータと いう一次資料のみならず、他のエスノグラフィーや報道などの二次資料でも、あるいは、その地域や人びとに関するを取り扱ったノンフィクション・フィクショ ン・論評などを問わず「書かれた資料体」のなかから「感覚」や「情動」に関する記述を見つけ出し、前後の文脈のまとまりを抜き出してください。 抜き出す文章の長さは問わない、最低5文例(巻末の北川民次や滝らの文章ぐらいのまとまりでよい)を収集し、研究代表者に送付する こと。 研究代表者は、それらの資料をとりまとめ(加筆修正などの編集は一切不要)て、研究会開催前に、全員に送付する。 研究班員は、代表者も含めて、それらの資料体を持参して、zoom研究会に参加する。研究班員は、集めた文章について「それがなぜ各人の興味を惹いたか (=趣味判断)」を披瀝し、最も気に入った、文例2つについて、簡単な発表をおこなう。 文責:池田光穂・滝奈々子
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滝奈々子が研究代表者である科学研究費 補助金・挑戦的研究(萌芽)「中米・カリブにお ける感覚のエスノグラフィーに関する実証研究」21K18363、の研究分担者である池田が運営する研究連絡サイトである。なおメンバーは、滝 奈々子・池田光穂・冨田晃・牛島万である。
まず採択された科研研究全体の概要について
「 本研究は、中米グアテマラ共和国とプエルトリコ、ホンジュラスをフィールドとして、おもにマヤ系ならびにガリフナ民族とメスティソにおける音楽・ダンス・ 絵画や写真等の表象芸術を中心としたポピュラーカルチャー 現象に焦点を当てた「感覚のエスノグラフィー」の記述法の開発に挑戦する。すなわち、従来の書記法に加えて「感覚のエスノグラフィー」という観点を取り入 れ、先住民社会におけるポピュラーカルチャーとりわけ、音楽・食・絵画・写真・ダンスなどの民族表象が、外部社会との接続により様々な文化要素の世界循環 するさまを、先住民社会ならびにその民族表象を受け入れる若者を中心とした感覚の語りや経験に焦点をあてて考察する」サイト内ポータル「中米・カリブにおける感覚のエスノグラフィーに 関する実証研究」「感覚現象の理解」)
ここでの要素は、まず(1)研究対象地域:中米グアテマラ共和国とプエルトリコ、ホンジュラ スがあげられ、(2)研究対象民族:マヤ系先住民(Maya)ならびにガリフナ民族(Garifuna)とメスティソ(Mestizo; ladino)ないしはプエルトリコ人(Puero Rican)[メス ティーソの項目の下にある]である。
またその研究テーマ(課題)は「音楽・ダンス・絵画や写真等の表象芸術を中心としたポピュ ラーカルチャー 現象に焦点を当てた『感覚のエスノグラフィー』の記述法の開発」である。そして、感覚のエスノグラフィーが対象とするものは、「先住民社会におけるポピュ ラーカルチャーとりわけ、音楽・食・絵画・写真・ダンスなどの民族表象が、外部社会との接続により様々な文化要素の世界循環 するさまを、先住民社会ならびにその民族表象を受け入れる若者を中心とした感覚の語りや経験に焦点」のありさまについての記述と考察である。
これらのテーマと地域の組み合わせのマトリクスから形成される方法は「地域研究」の方法と呼ばれるアプローチと酷似している。
また、その方法論は、エスノグラ フィーという書記法とある。エスノグラフィー(=民族誌)は、フィールドワークという手法を通して、人々の社会生活について具体的 に書かれた「体系的体裁によって」整えられた記述のことである。フィールドワーク(field work)とは、「研究対象となっている人びとと共に生活をしたり、そのような人びと[イン フォーマント] と対話したり、インタビューをしたりする社会調査活動のこ と」である。また「参与観察」という方法もある。
書記法(記述法)についての関心に焦点化された著作 には以下のようなものがある(→「エスノグラフィーを書く」)。
(1) ギアーツ『文化の解釈』1973年/「厚い記述」(thick description)/The interpretation of cultures : selected essays / by Clifford Geertz, New York : Basic Books , c1973
(2) Writing culture : the poetics and politics of ethnography / edited by James Clifford and George E. Marcus, 25th anniversary ed. / with a foreword by Kim Fortun. - Berkeley, Calif. : University of California Press , [2010], c1986.
(3) フィールドワークの物語 : エスノグラフィーの文章作法 / ジョン・ヴァン=マーネン著 ; 森川渉訳、東京 : 現代書館、1999年/Tales of the field : on writing ethnography / John van Maanen. Chicago : University of Chicago Press , 1988.
(4) The ethnographic imagination : textual constructions of reality / Paul Atkinson, Abingdon, Oxon : Routledge , 2011.
(5) Writing ethnographic
fieldnotes / Robert M. Emerson, Rachel I. Fretz, Linda L.
Shaw, University of Chicago Press , 2011/ 旧版(1995)の翻訳:方法としてのフィールドノート : 現地取材から物語
(ストーリー) 作成まで / R.M.エマーソン, R.I.フレッツ, L.L.ショウ著 ; 佐藤郁哉, 好井裕明,
山田富秋訳、新曜社 , 1998年
これらの手法を駆使しておこなう専門家(人類学者、社会学者、心理学者、臨床哲学者など)などでも、理論上の難問(アポリア) や倫理上のジレンマなどがあり、いつも、専門家集団の内部で議論になることがある。
伝統的なエスノグラフィー(=民族誌)調査は、1〜2年間、調査地(フィールド)に住み込んで、自分の研究テーマに関 連すること、および関連事項の「現場での情報収集」に専念するのが、慣例である。
●伝統的なエスノグラフィーの思想:「実生活の不可量部分(the imponderabilia of actual life)」を描く
「クラの説明にはいるまえに、民族誌的材料を集める のに使う方法を述べておいたほうがよ いと思う。どんな学問分野であれ、学術的研究の結果は、絶対に公明、率直に発表されるべ きである。物理学あるいは化学の実験的研究ならば、実験の仕方の詳細な説明、使用した器 具、観察の方法やその回数、それに費やした時間、測定の近似度などについての正確な記載 なしに、その結果が役にたとうなどとは夢にも考えられまい。物理学、化学ほど精密科学で ない、生物学や地質学のような学問では、研究を同様の厳密さで行なうことはできない。し かし、どんな研究者でも、実験または観察が行なわれたあらゆる条件を、読者にわからせよ うとして最善をつくすだろう。/ 民族誌学では、そのようなデータの率直な説明が、おそらくもっと必要であるとさえ思わ れるのに、いままでは不幸にして、つねに十分なぺージをさいてその説明がなされたとはか ぎらず、また多くの報告者は、事実の堆積のなかに分けいり、暗闇のなかからそれらをつか みだしてみせるときに、方法論的に十分な誠実さをもって自分のやり方をあきらかにしよう としない。[p.31]/ 評判も高く、科学的であると折紙をつけられた研究でありながら、大ざっぱにまとめただ けの説明を呈示し、しかも著者が、どのような実地の経験からその結論に達したかがぜんぜ ん説明されていないような例を引くのはたやすい。観察を行ない、情報を集めたさいの状況 を読者に知らせるための特別の一章はおろか、一節もないのである。/ 私の考えでは、そのような点を記載した民族学的資料だけが、まぎれもなく学問的価値を もつものであって、それがあってはじめて、直接の観察結果および現地住民による口述説明 と、著者の常識や心理学的洞察にもとづく推測との二つのあいだに明瞭な一線を画すること ができるのである。/ 本当のところ、あとにあげる表に含まれているような調査が、これからは 行なわれねばならず、そうしてこそはじめて、著者が記述している事実をどのていど個人的 に知っているか、読者は一目ではっきりと知ることができるのであり、また、どのような状 況下で現地住民からの資料が得られたかが理解される。/ また、歴史科学においては、もし学者が資料の出所を神秘のヴェールに隠し、あたかも直 感によって知っているかのように過去のことを語るならば、だれも本気で相手にしないこと は十分わかりきっているだろう。/ 民族誌学では、著者はみずから記録者であると同時に、歴史家でもある。そして一方、彼 にとっての資料は、たしかに簡単に手を触れられるような近さにありながら、同時にひどく とらえがたく、複雑なものである。つまり、それは固定した具体的な文書の形で存在するの[p.33] ではなく、生きた人間の行動と記憶のなかに含まれているのである。/ 民族誌学では、情報という生の材料と——これは研究者自身の観察、住民たちの陳述、部 族生活の種々相から得られる——研究成果の正式の最終発表とのあいだには、しばしばはな はだしい距離がある。民族誌学者は、対象住民の土地の浜辺に足をふみいれて、そこに住む 人々と接触しようと努力をはじめた瞬間から、結果をまとめて文章に綴りおわるときまで、 何年間も骨折って、この距離を歩まねばならないのである。私自身が経験した民族学者の苦 難をざっと書くだけで、どのような長い抽象的議論よりも、その問題に多くの照明をあてる ことができるかもしれない」(マリノフスキー 2010:31-33)※増田訳——「西太平洋の遠洋航海者」
●民族学的な「出口なし(Huis clos -非公開審理)」
「あ なたが突然、住民たちの集落に近い熱帯の浜辺に置き去りにされ、荷物のなかにただひとり 立っているとご想像願いたい。あなたを乗せてきたランチ[小船]か小舟はすでに去って影も見え ない。隣人となる白人の商人か宣教師のなかに住居を定めてからあとは、すぐに民族誌学的 調査をはじめる以外、何もすることはない。さらに、あなたが経験のない初心者で、手引き となるものもなく、助ける人もいないとご承知いただきたい。/ 白人はたまたま留守であるか、さもなければあなたのために時間を浪費することができな いか、そんな気持はもっていないとしよう。ニューギニアの南海岸で、生まれて初めての[p.34] 野外調査にとりかかったときの私の状態は、まさにこのとおりであった。初めの何週間か、 村々をたずねまわった長い期間のことを、いまでもよく覚えている。住民たちとほんとうに 接触し、材料を手に入れようとなんども執搬に努力してみたがむだだったときの絶望感、情 けなさを思い出す。それは落胆の時期であった。熱帯の退屈とれるように、私は小説を読みふけった。/ それから、白人の案内者といっしょに、または一人で、集落のなかにはじめてはいったと ご想像願いたい。何人かの村人たちが、あなたをとりまく。……。しかしえらぶった人や年配の者たちは、すわったきりである。あなたの連 れの白人は、住民たちを扱うのに型にはまったやり方を身につけている。彼は、あなたが民 族誌学者として現地の住民に接触するときにとるべき方法を理解しないし、たいしてそんな ことに関心をもちもしない。/ この第一回訪問で、あなたは、もしここでひとりでここにもう一度くれば、万事うまくいくだろうとという希望的な感情をもつことになるだろう。すくなくとも 私はそのように希望した」(マリノフスキー 2010:33-34)※増田訳
◎『文化の窮状』というテーマ
●エスノグラフィーに は、深掘りする「従来型」と、幅広くしらべる「マルチサイト」方法があ る
●感覚について書く
1)北川民次「メキシコでの嘆き」『メキシコの誘惑』PP.84-85、1960年
2)滝奈々子・池田光穂「音と感覚のエスノグラフィー」『音と感覚のエスノグラフィー』pp.9-10、2021年
「パアパ村におけるハープを使った合奏音楽の録音は
いつも通り約束の時間を大分過ぎてしまい、音楽家ドン・フラ
ンシスコ(Francisco Xi’ Cau, 1932-2014)の家の周囲は暗闇に包まれていた。わたしは宿へ帰るために、満天の夜空に
星が鮮明に輝くトウモロコシ畑
の中を、彼らとひたすら歩いた。ドン・フランシスコの家へ行くと必ず家族の誰かが、トウモロコシ畑にある獣道か
ら道路までを宿への帰途につくわたしと共に歩いてくれた。トウモロコシ畑には電燈はなく、一本の細いロウソクを
頼りに、静謐な空気に包まれて歩き進んだ。そこにあったのは、わたしたちが一歩一歩足を進める時にカサカサと鳴
る草のこすれる音と、無数の虫の声、「足下に気を付けなさい」といった囁き声のみであった。その夜、トウモロコ
シ畑と松の木に覆われた広大な丘陵で、透明な闇の空気に包まれたわたしははじめて、ケクチの人びとにとって畏
敬の念をもって崇められる山の頂に住まう神々すなわち峰の霊(Tzuultaq'a)の存在を強く感じた。
ケクチ語でツル
(tzuul)は山を、タカ(taq'a)は丘や山を意味する。その時わたしは自分が、アルタ・ベラパス県の地において、ま
るでトウモロコシ(ixim)の房のなかの小さな一粒であるように、そしてトウモロコシの粒として、大地を司る峰の
霊にわたしの運命を握られているような感覚に陥った。それは、自分がこの世界で何かに抑制されているような、自
分のちからではどうすることもできないような、恐ろしい体験であった。アルタ・ベラパスの湿っていて重い空気の
なか、ケクチの音楽家とトウモロコシ畑を黙々と歩き続けたこの経験は、ケクチの人びとの宇宙観すなわちコスモ
ヴィジョン(xoxloq'ilal rib'al
choxach'och')の理解へわたしを少し近づかせ、ケクチの祭礼音楽を研究するものとして祭礼音楽の意味を探求することへとつながっていった
」滝奈々子・池田光穂「音と感覚のエスノグラフィー」『音と感覚のエスノグラフィー』
pp.9-10、2021年。
3)エスノグラフィーの極北
シムチェンコ(Симченко
Ю.Б)「お祭りの準備をしていた湖は、まばら
に樹木の生え
て いる深い窪地にあった。 「おーい、遅れたじゃないか。すでに年寄りが犬を一頭殺してしまったよ」と若者のひとりが言った。
「なに、殺した?」と私(シムチェンコ)は彼にきいた。 「そうなんです、年寄りはそう信じているんです」と
若者は答えた。「彼らは祭りで自然という母に犠牲をささげるのです。古い信仰によると、大地なる母、太陽なる母、丹なる母、水/なる母、森なる母その他さ
まざまな神々がいるのです。そして狩猟の獲物が多いように、魚がたくさん獲れるように、彼らはなにか自分のものを供するのです。犬もそのひとつです。年寄
りたちは、はたの者がなんと言ったって、自分たちの信ずるようにしかしないんです」 「おそらく、いちばん悪い犬を絞ったんだろうね」と私は言った。
「もちろんですよ」と若者は言った。「ほっといても、まもなく死ぬやつですよ。それになにか疱疹のようなものにかかっていましてね、他の犬にうつる心配も
あったんです。ずるい年寄りたちですよ」 私の横を歩いていた人々は笑った。」出典:シムチェンコ『極北の人たち』加藤九祚訳、pp.50-51,
岩波新書、岩波書店、1972年.(「エスノグラフィーの極北」より)
4)オリバー・サックス「初見演奏」
以下の記述は、オリバー・サックスの『心の視力』か ら第1章初見演奏、リリアン・カリールというチェコの実際のピアニストの失認症(失読症で楽譜も含める)診察したサックスの記録です。→彼女はピアニスト のクロード・フランクの妻。娘はヴァイオリニストのパメラ・フランク。プラハ生まれ。1940年にニューヨークへ移住。イサベル・ヴェンゲロヴァ (Isabelle Vengerova)に師事。1957年にニューヨークフィルと共演してオーケストラデビュー。1959年にピアニストのクロード・フランクと結婚し、以 降クロード・フランクとは数多く共演。1975年からマネス音楽院でピアノ教師を務めた、とのこと。
サックスの文献によると、彼女は楽譜を含めた失読症 になってからも、記憶により楽譜に頼らず以前と同じような演奏を取り戻すことができたという。日常性のなかで失認にまつわる障害やパニックを引き起こした が、こと演奏については、彼女の一貫したアイデンティティを維持することに成功するどころか、むしろ、その安心をさらに強化することにつながったようであ る。(Sacks_Lilian_Kallir.pdf with password)
「リリアンが戻り、私が持ってきたものをかばんに詰
めて帰る準備をしていると、彼女は言った。
「先生、ビスコッテイの残りをお持ち帰りくださいな」ーところが奇妙なことに、彼女はビス
コッティを見つけられず、そのことに取り乱して半狂乱になった。ビスコッテイの皿はテーブル
の上にあったのだが、皿が動かされていたため、彼女にはどこにあるかわからず、どこを見れば
いいかも見当がつかなかったのだ。探すすべさえないようだった。ところが彼女は私の傘がテー
ブルの上にあるのを見て、ひどくびっくりした。傘として認識できず、曲がつてねじれているも
のが出現したことだけわかって、一瞬、半分本気で、それがヘビではないかと思ったのだ。
帰る前に、私はリリアンにピアノで何か弾いてくれないかと頼んだ。彼女はためらった。彼女
がかなり自信を失っているのがよくわかる。それでもバッハのフーガを美しく弾き始めたが、数
小節で申し訳なさそうに手を止めた。ピアノの上にショパンのマズルカの楽譜があるのに気づい
て、私がその曲について尋ね、そして励ますと、彼女は目を閉じ、マズルカ作品50 のなかの2
曲を弾いた。よどみなく、活気にあふれた、気持ちのこもった演奏だった」(pp.24-25.)
●まとめ
●質疑応答
Sensory experience
as method produces “sensible knowledge”
in that it encompasses “what is perceived through the senses, judged
through the senses, and produced and reproduced through the senses.”
Furthermore, sensory experience also “generates dialectical relations
with action and close relations with the emotions” of social actors
(Strati 2007, 62). In other words, the senses serve as crucial
intermediaries in the course of research and data generation. In the
process, researchers and interlocutors are intersubjectively connected
through different configurations of sociality. The approach to sensible
knowledge is anchored upon Simmel’s (1908; cited in Strati 2007)
contention that we perceive our
fellow interlocutors through sensory lens comprising both appreciation
and comprehension.
Engaging with our own bodies and senses over the course of fieldwork
means opening up further possibilities toward providing embodied
insights of social phenomena that we study. By exercising sensory
intelligence—where all of our senses are mobilized in reflexive and
skillful ways to develop sensuous scholarship in appreciation of one’s
own and others’ senses (Vannini, Waskul, and Gottschalk 2012)—the
initially unfamiliar social life that researchers, at first as sideline
observers (Contreras 2015), study may potentially become more familiar
as a result of doing what respondents do. Such familiarity, in turn,
ought to inform and further meliorate the research questions,
theoretical framing, and analytical directions that are subsequently
undertaken (Contreras 2015). If the
goal of ethnographic research, among others, is to uncover how social
structure and individual and collective identities are influenced and
shaped by embodied and sensory knowledge and practices, researchers who
begin from the body “do not assume the uniformity of either the body or
epistemic experience” (Pitts-Taylor 2015, 23). More pertinently,
embodied insights, when appropriately yoked to reflexivity, unveil
heterogeneous ways of knowing through the body and the senses. Such
heterogeneity can clearly cut across not only the three domains of
social inquiry that have been presented herein. It potentially
encompasses a broad range of issues, themes, and social categories that
form the nuts and bolts of everyday life and lived experiences of
embodiment. Learning to know, perceive, and orientate one’s lifeworld
through the lens of the body and the senses would mean privileging
sensory-bodily analysis. Such approaches aim at improving social
scientific inquiry engaged through the body of both the researcher and
respondents. |
方法としての感覚的経験は、「感覚を通して知覚され、感覚を通して判断
され、感覚を通して生産・再生されるもの」を包含するという意味で、「感覚的知識」
を生み出すのである。さらに、感覚的経験は、社会的行為者の「行為との弁証法的関係や感情との密接な関係も生み出す」(Strati 2007,
62)。つまり、感覚は調査やデータ生成の過程で重要な仲介役を果たすのである。その過程で、研究者と対話者は、社会性のさまざまな構成を通じて、間主観
的に接続される。感性的知識へのアプローチは、ジンメル(1908;Strati 2007に引用)の、鑑賞と理解の両方を含む感覚的レンズを通して対談相手を知覚すると
いう主張に基づいている。フィールドワークにおいて自らの身体や感覚と向き合うことは、研究対象となる社会現象を体現的に洞察するためのさらなる可能性を
開くことを意味する。感覚的知性を発揮することで、つまり、反射的かつ巧みな方法で五感を総動員し、自分や他者の感覚を評価する感覚的学問を発展させるこ
とである(Vannini, Waskul, and Gottschalk 2012)。最初は傍観者として(Contreras
2015)、研究者が調査する、最初は見慣れない社会生活が、回答者が行うことの結果としてより親密になる可能性があるのである。そのような親しみやすさ
は、その後に行われるリサーチクエスチョン、理論的枠組、分析の方向性に情報を与え、さらに改善するはずである(Contreras
2015)。とりわけエスノグラフィック研究の目標が、社会構造や個人・集団のアイ
デンティティが、身体的・感覚的な知識や実践によってどのように影響を受け、形成されているかを明らかにすることであるならば、身体から出発する研究者は
「身体や認識的経験のいずれもが均一であると仮定しない」(ピッツ・テイラー 2015, 23)のだということになろう。より適切には、
体現された洞察は、反射性と適切に結びついたとき、身体と感覚を通じて知ることの異質な方法を明らかにする。このような異質性は、ここで紹介した3つの社
会的探求の領域だけでなく、明らかに横断することができる。それは、日常生活や身体性の生きた経験の要となる、幅広い問題、テーマ、社会的カテゴリーを潜
在的に包含しているのである。身体と感覚のレンズを通して自分のライフワールドを知り、知覚し、方向付けることを学ぶことは、感覚的・身体的分析の特権を
意味する。このようなアプローチは、研究者と回答者双方の身体を通して行われる社会科学的探究を向上させることを目的としている。 |
https://ap5.fas.nus.edu.sg/fass/socleyk/final%20version%20dec%202019.pdf |
https://www.deepl.com/ja/translator |
Paul Atkinson, The ethnographic
imagination : textual constructions of reality, 2011 First published in 1990, The Ethnographic Imagination explores how sociologists use literary and rhetorical conventions to convey their findings and arguments, and to 'persuade' their colleagues and students of the authenticity of their accounts. Looking at selected sociological texts in the light of contemporary social theory, the author analyses how their arguments are constructed and illustrated, and gives many new insights into the literary convention of realism and factual accounts. 1. Introduction: ethnography as method and as genre 2.Ethnography and the poetics of sociology 3. Ethnography and the poetics of authoritative accounts 4. Ethnography and the representation of reality 5. Voices in the text: exemplars and the poetics of ethnography 6. Narrative and the represnetation of social action 7. Character and type: the textual construction of actors 8. Difference, distance, and irony 9. Conclusion: textual possibilities |
1990年に出版された『エスノグラフィック・イマジネーション』は、社会学者が自らの発見や議論を伝え、同僚や学生を「説得」するために、いかに文学 的・修辞的慣習を用いるかを探求している。著者は、現代の社会理論に照らして社会学のテキストを選び、彼らの議論がどのように構成され、説明されているか を分析し、リアリズムと事実に基づく説明という文学的慣習について多くの新しい洞察を与えている。 1. はじめに:方法としてのエスノグラフィー、ジャンルとしてのエスノグラフィー 2.エスノグラフィと社会学の詩学 3. エスノグラフィと権威的な説明の詩学 4. 4.エスノグラフィと現実の表象 5. テキストの中の声:エスノグラフィーの模範と詩学 6. ナラティブと社会的行為の表象 7. キャラクターとタイプ:行為者のテキストによる構築 8. 差異、距離、皮肉 9. 結論:テクスト上の可能性 |
★感覚の民族誌(エスノグラフィー)で好んでとりあげられる民族誌
E.E.エヴァンズ=プリチャード『アザンデ人の世界 : 妖術・託宣・呪術』向井元子訳. --
みすず書房, 2001年 Witchcraft, oracles and magic among the Azande / Edward Evan Evans-Pritchard, Oxford : Clarendon Press |
妖術審判の際に、儀礼の音楽が演奏されて、人々がダンスを踊る(典拠箇
所不明)※ただし、これは、エヴァンズ=プリチャードのこの民族誌が感覚現象に特化しているわけではなく、民族誌記述の中に有機的に音響的環境や人々の身
体所作などが巧みに込められているからであろう。 |
ジョン・
ブラッキング『人間の音楽性』岩波書店 Blacking, J. How Musical is Man? University of Washington Press, Seattle.1973. |
音楽学者として完全にベンバの音楽をコピーできたと思って、彼らの聴か
せると、上手だが、それは隣の民族集団のものであると否定されてしまう。それを手がかりに「ベンバの音楽性」とは何かという具体的探究がはじまり、最終的
にそれが明らかにされてゆく。 |
感覚の人類学において、重要なのは、エスノグラフィー記録を収集してい
る民族誌学者の心のなかに感じる、現地社会や人々を通した「民族誌学者じしんの自己省察過程」である。その意味で、このような業績の最初の著作は、ブロニスラフ・マリノフスキーがその没後に出版された『マリノフスキー日
記(A diary in the strict sence of the term)』であろう。 |
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1970年代以降における「感覚の民族誌」の金字塔は、ジーン・L・ブリッグス, Never in anger : portrait
of an Eskimo family / [by] Jean L. Briggs. Cambridge : Harvard
University Press , 1970. |
ヤン・プランパー『感情史の始まり』森田直子監訳、みすず書房 ,
2020. ・対象集団ウトゥクッヒカーリングミウト(p.120)pp.120-129. |
ロバー
ト・I・レヴィ(1924-2003)のタヒチでのフィールドワーク |
ヤン・プランパー『感情史の始まり』森田直子監訳、みすず書房 ,
2020. ・対象集団、タヒチ人、Pp.129-133. |
ミッシェル・ロザルド Michelle Z. Rosaldo. 1980. Knowledge and Passion: Ilongot Notions of Self and Social Life. Cambridge University Press, |
ヤン・プランパー『感情史の始まり』森田直子監訳、みすず書房 ,
2020. ・対象集団、イロンゴット、Pp.134-140. |
ライラ・アブ=ルゴド Veiled sentiments : honor and poetry in a Bedouin society / Lila Abu-Lughod, Berkeley, Calif. : University of California Press , c1986 |
・ライラ・アブ=ルゴドとその家族. |
キャサリン・A・ルッツ 1988: Unnatural Emotions: Everyday Sentiments on a Micronesian Atoll and Their Challenge to Western Theory. Language and the politics of emotion / edited by Catherine A. Lutz, Lila Abu-Lughod, Paris : Editions de la maison des sciences de l'homme , c1990 |
Catherine Lutz, b.1952 |
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