はじめによんでください

  ゾンビとわれわれ人類学者

—— 感染のメタファーとその現実 ——

Anthropological Zombie or Anthropology as Zombie existence


Felicia Felix-Mentor as a Haitian Zombie from Zora Neale Hurston's "Tell My Horse: Voodoo and Life in Haiti and Jamaica," 1938

池田光穂

★ ゾンビとわれわれ人類学者—— 感染のメタファーとその現実 ——

ゾ ラ・ニール・ハーストン(1891-1960)は、グッゲンハイム財団の支援をうけて1936年から1937年にかけてジャマイカとハイチでフィールド ワークをした。その結果が翌年に出版される"Tell My Horse: Voodoo and Life in Hati and Jamaica"(邦題:『ヴードゥーの神々』)である。その中で「かつてフェリシア・フェリックス=メントールだった人の残骸(ないしはぬけ殻)」の姿 を撮った写真がある。ゴナイブの病院の中庭で著者によって撮られたゾンビの写真は、病院の患者用のガウンをつけて、こちらを見据えて仁王立ちしている。 ハーストンは、ゾンビを前にして、彼女[それ]にかける言葉もなく、見る以外に得られるものはなく、そしてその「生きる屍」の姿を長く見続けることはでき ないと落胆しながら記述している。

この発表は、その写真の姿に取り憑かれた私が「複数性・複数化の文化人 類学」で考えられる、さまざまな問題提起に対してゾンビ的存在論 (Zombic ontology)から考察するものである。

「ゾ ンビ」つまりノーマルな生者を襲ったり危害を加えたりすることを通して感染、増殖する想像上あるいは民族誌に登場するエージェント[モデル]という存在に 焦点をあて、複数性と非同一性のテーマが伏在することを指摘する。Lauro and Embry(2008)による"A Zombie Manifesto"を含めてさまざまな言説の議論を踏まえて、ハーストンが描写した1930年代中頃のヴードゥー信仰を中心としたゾンビを標準的なもの として、フーンガン(ヴードゥー司祭)により死体から蘇らせられ、様々なことに使役される非主体的存在(non-subjective agent)として考えてみる。

(1) ゾンビ存在論の第一の特徴。ゾンビとして蘇らせる犠牲者は、年をとっていなければ誰でもいいという。生前のジェンダーや社会的属性は関係ない。その意味で はCOVID-19の感染のように、感染のチャンスは貴賤により差別されるのではなく誰にでも起こりうる。蘇らせる呪薬と墓場の土には強い結びつきがある ので、そのような汚染土に対して人は忌避心を抱く。しかし感染現象は防いでも防ぎきれない無力感がある。他者との普遍的同一性——個体的個性を単一の犠牲 者(患者)へと変えてしまうこと——への恐怖とその運命論に引きずり込むのだ。そこで人々は個別の歴史をもったアイデンティティ(内的首尾一貫性)を失 い、ゾンビ(患者)としての同一性(ゾンビアイデンティティ)のもとに普遍的に統一される。

(2) ゾンビ化への恐怖は、ハーストンが元フェリシアという女性[それ]と邂逅したときに覚えたように、両者の間のコミュニケーション不能性のなかに現れる。ゾ ンビの存在論の二番目の特徴は、[それは]生者か死者がわからない宙吊りの身体である。そのプラトンの「牢獄としての身体」の中には心というものがなく、 ただ主人の言うことを聞く機械のような無機質なものにすぎない。そこには生者がもつ生々しい命の輝きがない。生と死のあいだの煉獄的状況におかれている。

(3) ゾンビの存在論の第三番目の特異性は、ハイチのオリジナルの「伝統的」ゾンビと、1968年以降のジョージ・ロメロ監督の"Night of the Living Dead"の世界的流行以降に全世界あるいは全思潮世界に膾炙した「隠喩」としてのゾンビあるいは思考実験としての「ゾンビ状態」のあいだの想像もできな いほどの乖離である。それを「ゾンビ・マニュフェスト」の著者たちLauro and Embry(2008)は、グローバル資本主義[の犠牲者たち]とポスト・ヒューマニズムの理論学派のあいだの両立しがたい緊張関係にあると巧みに表現し ている。すなわち、リアルである/であったゾンビのほうは、生きている間による経済的人的搾取にあったプレモダン時代のプレカリアート——植民地主義や人 種主義という構造的暴力の必然的帰結としてのルンペンプロレタリアート——であり、生きているあいだにおいてでも、劣った主体としての生きるに値しない生 命体が、死んでもなお呪術により蘇らせられて搾取可能の限界を超えて使役されるという植民地状況の過酷な現実を体現する。他方、隠喩としてのゾンビは、映 像やドラマさらにはゲームソフトのなかで自己増殖を遂げる(福田 2024)だけでなく、時には哲学上の思考実験(Chalmers 1996)の対象になったり、挙句にはゾンビ・マニュフェストの著者たちのように、ポストヒューマン時代の変革の主体になったりして資本主義体制の終焉を 予見してくれる存在なのである(妄想のフラクタルな増殖)。

最後に存在論分析に手を休めて歴史的文脈にハイチの文化表象としてのゾ ンビを押し返してみよう。1915-1934年までの米国海兵隊の占領以降、独裁と貧困と暴力の跋扈、1980年代のエイズ流行の際のホモフォビアパニッ ク、先の米国大統領選挙における移民への中傷など、ハイチはポストコロニアルな否定の表象の収蔵庫でありつづけてきた。ハイチの外でのゾンビは平和な社会 の[仮想的]想像力として豊かとも言えるゾンビ研究の活況を呈している。〈発祥の地の不幸〉と〈移植先の奇妙な多幸感〉という著しい対比とその解決への模 索を我々は決して忘れるわけにはいかないのだ。

★ キーワード:ゾンビ、ゾラ・ニール・ハーストン、ハイチ、感染と告発、脱 植民地主義.

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In Taíno culture, the hupia (also opia, opi'a, op'a, operi'to) is the spirit of a person who has died.

In Taíno spiritual beliefs, hupias (ghost spirits of those who had died) were contrasted with goeiza, spirits of the living. While a living goieza had definite form, after passing away the spirit was released as a hupia and went to live in a remote earthly paradise called Coaybay.[1][2] Hupias were believed to be able to assume many forms, sometimes appearing as faceless people or taking the form of a deceased loved one. Hupias in human form could always be distinguished by their lack of a navel. Hupias were also associated with bats and said to hide or sleep during the day and come out at night to eat guava fruit.
タイノ族の文化に おいて、フピア[ウピア](別名:オピア、オピア、オピア、オペリート)とは死者の魂を意味する。

タイノ族の精神信仰において、フピア(死者の幽霊の魂)はゴーイア(生者の魂)と対比される。生きているゴーエイザには明確な形があるが、死後、その魂は フピアとなって解き放たれ、コアイベイと呼ばれる地球上の遠く離れた楽園に住むことになる。[1][2] フピアは多くの姿に変身できると信じられており、時には顔のない人として現れたり、亡くなった愛する人の姿を取ったりする。人間の姿をしたフピアは、へそ がないことで常に区別できる。また、フーピアはコウモリとも関連付けられており、昼間は隠れたり眠ったりし、夜になると出てきてグアバの実を食べると言わ れていた。
Concept of the Hupias or Ghost Spirits

On the matter of what the Tainos believed as to the Hupia (Ghost Spirit). The Taino people never believed in the concept and or idea of Death, as they believed in passing on of the human spirit and an Hereafter life. The Spanish historians and writers of the time however gave their own bias religious interpretation based upon their own Catholic and Christian ideas and or concepts of Death and as to the soul of the humans going to some place they call Heaven and the soul awaiting a day of judgement by their God.[citation needed]
フピアまたは幽霊の概念

タイノ族がフピア(幽霊)をどう信じていたかということについて。タイノ族は死という概念や考えを信じていなかった。彼らは人間の魂が転生し、来世がある ことを信じていたからだ。しかし、当時のスペインの歴史家や作家たちは、カトリックやキリスト教の死や魂に関する考えに基づいて、自分たちの偏った宗教的 解釈を提示した。彼らは、人間の魂は天国と呼ばれる場所に行き、神による審判の日を待っていると主張した。[要出典]
In popular culture
In the novel Jurassic Park by Michael Crichton, hupia are suspected of an attack on an 18-year-old boy working on construction for Jurassic Park on the fictional island of Isla Nublar. The culprit is later described as a Velociraptor. Hupia are also accused of a rash of attacks on infants and other people in rural Costa Rica. They are described as "faceless night ghosts who kidnapped small children". Later events show that the real culprits were Procompsognathus that had escaped from Isla Nublar.[3]
大衆文化において
マイクル・クライトンの小説『ジュラシック・パーク』では、架空のヌブラ島でジュラシック・パーク建設に従事していた18歳の少年がフーピアによる攻撃を 受けたと疑われている。 後に犯人はヴェロキラプトルと説明されている。 フーピアはまた、コスタリカの田舎で乳児や他の人々を襲ったとして非難されている。彼らは「小さな子供をさらう顔のない夜の亡霊」と描写されている。 その後の出来事から、真犯人はヌブラ島から逃げ出したプロコンプソグナトゥスであることが判明した。[3]
Mask Master: Taino Dictionary (Link no longer working as of Oct. 25, 2024. No record in Internet Archive.)
Dasrath, Sparky. The Arawaks
Deiros, Pablo. Fundación Kairós. Religiones indígenas del área caribeña
Guitar, Lynne. 2005. Taino Caves
Poviones-Bishop, Maria. The Kislak Foundation. The Bat and the Guava: Life and Death in the Taino Worldview Archived 2008-07-24 at the Wayback Machine
マスク・マスター:タイノ語辞典(2024年10月25日よりリンク切 れ。インターネットアーカイブに記録なし)
Dasrath, Sparky. The Arawaks
Deiros, Pablo. Fundación Kairós. Religiones indígenas del área caribeña
Guitar, Lynne. 2005. Taino Caves
Poviones-Bishop, Maria. The Kislak Foundation. The Bat and the Guava: Life and Death in the Taino Worldview Archived 2008-07-24 at the Wayback Machine
https://en.wikipedia.org/wiki/Hupia

☆ ゾンビ研究テーゼ集(→元クレジット「人類学的ゾンビあるいはゾンビ存在としての人類学:Anthropological Zombie or Anthropology as Zombie existence」)

「生 なるものは、それ以外の形で生きることをしらない」(デリダ 2007:11)。

★ゾン ビと憑在学(hauntology)との深い関係

・ハウントロジー=憑在 論 - 過去の観念の回帰または持続

★ゾン ビは、生者と死者のオントロジー的区分に疑問符をなげかける(→「存在論=オントロジー」)

★ゾン ビは、自己と他者のオントロジー的区分に疑問符をなげかける(→「アイデンティティ」「同定」「人類学における自己と他者」)

★ゾラ・ニール・ハーストンの「ゾンビ」であったフェリシア・フェリックス=メントールは、1907年 に死亡し、埋葬されたのに、1936年10月に「ここは父の農場だ。ここで暮らしていた」と呟き、裸で徘徊することになるのは、亡くなった当時のフェリシ アと、29年後に蘇ったゾンビのあいだの「人格の同一性」はたもたれてい る。

★別に ゾンビがアイデンティティが単数であっても問題ではない。ゾンビとノーマルが競争的に存在する社会のダイナミズムが「ゾンビ問題」にとって重要だからだ (→「人類学における自己と他者」)。

ベタ ニアのラザロ

・「ベタニアのラザロ[a]は、新約聖書に登場する人物で、ヨハネによる福音書に よると、死後4日目にイエスによって蘇生したとされる。この復活は、イエスの 奇跡のひとつと考えられている。東方正教会では、ラザロは「義人のラザロ」、「4日間死んでいた者」として崇敬されている[4]。東方正教会とカトリック 教会では、彼のその後の生涯について、さまざまな説明がなされている。 ヨハネによる福音書における7つの奇跡の文脈において、ベタニア(現在のヨルダン川西岸地区にあるアル・エザリヤという町で、「ラザロの地」を意味する) でのラザロの復活は、クライマックスとなる物語である。すなわち、イエスの「人類にとって最後の、そして最も抵抗しがたい敵である死に対する」力を示すも のである。このため、福音書の中でも重要な位置を占めている。 ラザロという名前は、科学や大衆文化において、一見したところ生命が回復したことを指して頻繁に使用されている。例えば、科学用語のラザロ分類群は、一見 絶滅したように見えた後に化石記録に再び現れた生物を指し、また、ラザロ徴候やラザロ症候群もある。この用語は文学においても数多く使用されている。 同じ名前の個性的な人物は、ルカによる福音書にあるイエスのたとえ話「金持ちとラザロ」にも登場する。このたとえ話では、同名の登場人物2人ともが死に、 前者は地獄での苦しみから救ってくれるよう後者に懇願する」(→ベタニアのラザロ

★他者(ゾンビに恐れるハイチ人)を単純化すること自体が疑わしい(→他者を単 純なものに還元することに人類学は抵抗しなければならない)。

タウシグが 指摘するクナ族文化のもう一つの特異性として、クナ族が伝統的なモラ (mola)に、ジャックダニエル(Jack Daniel's)のボトルの歪んだ反射像や、蓄音機の広告に用いられた20世紀初頭の人気アイコンである「おしゃべり犬」など、西洋のポップカルチャー のイメージを取り入れていることが挙げられる。タウシグは、クナ族文化を、クナ族が過去に白人の入植者と遭遇し、彼らの大きな船や異国の技術に感銘を受 け、彼らを神と誤解しただけのものに還元する人類学を批判している。タウシグにとって、他者をこのように単純化すること自体が疑わしい。『模倣』と『他者 性』を通して、彼は両方の側面から論じ、人類学者がなぜクナ文化をこのように単純化するようになったのか、また、この視点の価値を明らかにすると同時に、 人類学的還元主義から生活文化の独自性を擁護している」(→「マイケル・タウシグ」)

★私た ちのゲームのルールを他者のゲームに押し付けないこと。物語ゲームの複数性を維持すること。


★他者(ゾンビに恐れるハイチ人)を単純化すること自体が疑わしい(→他者を単純なものに還元することに人類学は抵抗しなければならない)。


★ゾン ビに食われる(=感染する)という、トラウマ的現実は、現実の本質に 亀裂をもたらす。それは不在で支配的な終末として現実の観念をに迫るものではなく、存在そのものの空白を表現するものだ。


★ゾンビの存在論
・「消滅したものも生成すべきものもいま現存していない点では隠された状態にあると言ってよい。ところがあるものの存在とは、いまだ現存していない状態か ら既に現存していない状態への移り行きのなかで、たまたまいまの時点で現存している状態のことをあらわす。あらゆる存在者はこのように、未だ存在しない状態から、存在するものへと生成し、すでに存在し ない状態へと消滅してゆく、そのような移行のなかの結節点のようなものとして生じてくるのである」——知の快楽「ア ナクシマンドロスの言葉:ハイデガーの存在論

☆名前を失った存在としてのゾンビ
・人々が恐れれるゾンビは、各人が個性を失い、ゾンビ一般として呼び習わせることである。そこでは、一人の個人が複数の名前で呼ばれたり、各クランにより 共通の個人名がみられるような伝統社会のような呼称の複数性の概念がない(モース 1995: 21)

★感覚をもたないゾンビの「思考」の状態とはどのようなものか?
・メルロ=ポンティ『知覚の現象学』から、感覚をもった我々が、どのように世界を受肉するのか考えてみよう?:
・「感覚するとは 実は性質にひとつの生命的な価値を授与することであり、性質をまず何よ りもわれわれにとってのその意味、われわれの身体というこのどっしりした塊にとってのその意味のなかで捉えることであって、そこから感覚することがいつも 身体への照合を伴うということもできるわけである。……感覚するとは、世界とのこうした生活的な交流のことであって、この交流によって世界がわれわれに とって、われわれの生活のなじみ深い場としてあらわれくるわけである。知覚対象と知覚主体とがその厚みもち得るのは、感覚のおかげである。感覚は指向的な 織物であって、認識の努力がこれをかえって解体させてしまうのである」(『知覚の現象 学(1)』竹内芳郎ほか訳、104ページ)。

★→文化表象としてのゾンビ.

★ ゾンビリンク集

☆ 人類学の対象としてハイチのゾンビについて考える。その題材は、ゾラ・ニール・ハーストンの "Tell My Horse: Voodoo and Life in Haiti and Jamaica," 1938(邦訳『ヴードゥーの神々』常田景子、筑摩書房、2021年)である。

リ ンク

リンク(先住民と未開の表象)

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