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自然学論集

Physicae Auscultationes, Anthropology of Natural Science: Homo sapiens and their patterns of culture

Mitzub'ixi Qu'q Ch'ij

この断片集は、本書に収載されている論考を作る際に ノートや断片として池田光穂のウェブページのディレクトリー(https://navymule9.sakura.ne.jp/)に存在するもので、本書の内容とは直接接点を持たないものが多いが、本書の思想的背景には不可欠な参考資料 である。左よりウェブのタイトル・英文名(空欄はないもの)・およびページ記述の一部である。ウェブのタイトルをgoogle 等のサービスを使ってサイト内検索することで、アクセスが可能になる。

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第1章 ラボラトリーライフ:神経生理学実験室のエスグラフィー
はじめに/1.科学の民族誌とはなにか/2.先行研究/3.フィールド セッティングに関する覚書/4.歴史的実在としての神経生理学とその研究室/5.ある科学論文の誕生(執筆:佐藤宏道)/6.ある科学論文の解説(執筆: 池田光穂・七五三木聡)/7.神経科学の文化分析/附表:「大阪大学附属高次神経研究施設関連小史」
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第2章 エピクロスの末裔たち
1.自然科学者の生理学/2.神経生理学と文化人類学/3.大学制度における神経生理学研究室/4.場と知識/5.歴史的実在としての神経生理学とその研究室/6.動物実験と科学的検証手続き/7.人間と動物のハイブリッドにおける「配慮」状況
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第3章 実験動物にみられる自然の二重性について
1.自然の存在論について/2.実験動物の必要性/3.実験室のなかの動物/4.動物実験の秘義化/5.実験動物の位相:供犠とマテリアルのあいだ/6.動物という自然の論証過程/7.結論
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第4章 フィールド・ライフ:熱帯生態学者のエスノグラフィー
1. 問題の所在/2.調査地および調査の概観/3.観察/4.考察/5.ラ・セルバ日記
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第5章 密林のなかの文化生産:コスタリカのエコツーリズム
1.序論/2.エコ・ツアーとエコ・ツーリスト/3.コスタリカのエコ・ツーリズム/4.〈自然〉の分析/5.結論
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第6章 イルカと日本人
1.元祖イルカ・ウオッチャーとしての柳田国男/2.イルカの民俗学/3.イルカを捕る/4.イルカの人助け/5.九州・天草でのイルカ・ウォッチング/6.エコ・ツーリズムとしてのイルカ・ウォッチング/7.イルカと日本人
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第7章 生物多様性概念の社会化
1.研究開始当初の背景/2.研究の目的/3.研究の方法/4.研究成果
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第8章 野生動物とのつきあい方
1.はじめに/2.2つのアプローチ:生態人類学と象徴人類学/3.動物に対する「思い籠め」/4.ツキノワグマは「抗議活動」をするか?/5.ジュゴンの当事者適格と平和運動/6.メタファーに埋め尽くされる生物多様性概念/7.結論:「人間の鏡」としての動物
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第9章 ハゲタカの声を聴く
1.怠惰な男とハゲタカ男/2.2人のイヨマンテ儀礼/3.イオマンテの表象/4.視覚の神経生理学の進歩における「実験動物の貢献」/5.動物という「自然」の論証過程/6.観点主義の観点/7.結論:来るべき人類学にむけて
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第10章 外科医のユートピア
1.問題の所在/2.手術手技研究会/3.劇場から工場へ/4.工場から社会へ/5.実践共同体と外科手術/6.外科医のユートピア
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第11章 情動の文化的解釈
1.はじめに:情動(感情)に着目することがなぜ重要なのか?/2.文化と情動/3.近代情動研究略史/4.デカルトと情動/5.首狩りという経験とその記述/6.結論:情熱と冷静
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第12章 子殺しと棄老
1.はじめに:人殺しを通した動物殺しの解明/2.子殺し/3.老人遺棄と殺害/4.民族誌記述の細部へ:アチェにおける子殺し/5.結論:死の恐ろしさに抗して
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附録:1.岩間吉也教授資料集
(1)おそらく岩間吉也執筆と思われる「附属高次神経研究施設」の記述 (大阪大学医学伝習百年史刊行会編『大阪大学医学伝習百年史』大阪大学医学伝習百年記念会、1978年より)および(2)岩間吉也の生誕65歳を記念して 福田淳・林泰正・笠松卓爾が編纂した欧文論文集"From Neurophysiology to Neuroscience"の巻頭の紹介部分。
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附録:2.自然学断片集(池田光穂ウェブページからの拾遺)
このページの以下の記述です。

なお、この研究の成果は、池田光穂「自然学論集 : 文化人類学の観点から」Co*Design 特別号、3号、pp.1-573, 2021年に結実しました。リンクしてください。

生気論
vitalism, vitalismo
生気論(せいきろん)とは、生命現象 を、物理学、化学、数学などに還元できない特別の法則によって支配されているとみる生命論(=哲学観)であ る。生気論とは欧米語のヴァイタリズム(vitalism)からの翻訳で、vital とは生命や活力を意味する形容詞である。
自然と文化とそれらのハイブリッド
Anthropological analysis of Comparative Ethno-Natural History
「恩寵をラテン語ではグラーティア (gratia)というので、中世のトマス・アクィナス(Thomas Aquinas)の思想の要約として、しばしば "Gratia naturam non tollit, sed eam perficit"=恩寵は自然を破壊せずこれを完成する、という文章が引用される。これが神としての超自然と人間を含めての自然一般との関係をあらわし ている。動物はこのナトゥーラすなわち自然の世界にとどまるが、人間はとくに、それを超える営みをすることができる」(今道友信『自然哲学序説』 p.19, 講談社学術文庫、1993年)。
ホワイトヘッドの自然
Whiteheadian Concept of Nature, 1919
「自然とは一体何であるのか。われわれ は自然科学の 哲学について検討してみなければならない。自 然科学(natural science)とは自然に関する科学(science of nature)である。では、自然とは何で あるか。/ 自然とは、われわれがいろいろな感覚を通じての知覚のなかで観察するものである。この感覚知覚 (sense-perception)によって、思考ではない何ものか、思考に対して自己充足的な何ものかを意識し ているのである。思考に対して自己充足的なものとしての自然のこの存在特性が、自然科学の基礎に 存在している。このことは、自然が一つの閉鎖系(closed system)と考えられ、その相互諸関係は、 それらが考察されているという事実の表現を必要としない、ということを意味している。/ したがって、ある意味で、自然は思考と無関係に存在している。わたくしはたとえこう言明したに せよ、いかなる形而上学的宣言をも意図しているのではない。ただ、思考について語らずして、自然 について考察しうるということを意味しているにすぎないのである。このとき、われわれは自然について いて「同質的(homogeneously)に考察していると言えよう」。
エヴァンズ=プリチャードのマレット講演

E.E.Evans=Prichard; Marett Lecture(1950.6.3)::エヴァンズ=プリチャードが今から半世紀前に講演したこの内容は、1922年にはじまる社会 人類学の方向性をそれまでの自然科学(物理学や化学)をモデルにするものから、人文社会科学的伝統に“回帰?”しようとしたマニュフェストである。また、 彼の民族誌に端的に現れているように「文化の翻訳」の難しさ——それから7年後の1956年に書かれることになる『ヌアーの宗教』では彼自身が<ヌアーの 神概念>についての翻訳の難しさを、ほとんど矛盾する言明を吐露しながら実例として示すことになるのだ——を戒めをもって表明したものだ。「文化の翻訳」 という研究者の傾向性(ハビトゥス?)はのちに、タラル・アサド(『ライティング・カルチャー』所収論文)によって厳しい吟味にさらされることになる。
神経生理学研究室の事例検討

私の発表は「自然と文化の境界面:神経 生理学研究室の事例検討」のタイトルで、日本の大学の神経生理学実験室における動物実験の分析を通して、近代社会 における人間と動物の関係について考察します。
生物学的自然主義
biological naturalism by John R. Searle, 2004
サールの説明は、一人称の存在論で表現 されるコギト(cogito 思惟する私)と神経科学の成果としての自然主義――私が感じ考えているととは身体(心と精神)のなかで起こっている生物学的プロセスそのもので、それ以外 の要因を考える必要は一切にない――が前提にする三人称の存在論を調停するものである。論理的に言えば、ある種の折衷主義であるし、現在の我々が到達した 自然科学の知識と合理的な推論との調和という観点からみればブラグマティクな主張でもある。ジョン・サールの主張は極めて明快である。
人類学
anthropology
人間を研究する学問。人類(ギリシャ語 でanthropos)と学問(同じくlogos)の 合成語がこの言語である。人類学が現在の学問の体勢として出発する以前から、この用語は〈人間学〉という用語と学問(=哲学)で呼ばれていたが、人類学と は別物であり、また直接の先祖というわけではない。
人間と自然の一致(啓蒙主義)
Paradoxia epidemica
「啓 蒙主義の人間観は言うまでもなく、自然科学がベーコンの主張とニュートンの指導下で発見した観点、すなわち人間は自然と全く一致し、一般的に統一し た 構成を共有しているという見方であった。還元すればニュートン的宇宙の如く、規則的に構成され、あくまで不変で、見事なほどに単純な人間性が存在するとい うのである」(上巻 p.60)クリフォード・ギアツ『文化の解釈学』
自然人類学
physical anthropology
人 間を研究する学問が人類学。人類(ギリシャ語でanthropos)と学問(同じく logos)の 合成語がこの言語である。人類学が現在の学問の体勢として出発する以前から、この用語は〈人間学〉という用語と学問(=哲学)で呼ばれていたが、人類学と は別物であり、また直接の先祖というわけではない。
エスノサイエンス
ethnoscience, ethno-science
エスノサイエンス、すなわち民族科学と は、それぞれの民族の文化や社会に根拠をもつ、それぞれの民族がもつ固有の自然科学認識からうまれる概念 や実践のことである。
反逆する自然、癒される自然

こ の研究は、今日の地球温暖化や絶滅危惧種などの報道において頻出する「生物多様性」の語用論 (pragmatics)に関する文化分析の研究の一環として、〈自然の表象〉としての動物の存在様式と、〈文化〉や〈社会〉の領域を占有している人間の 存在様式のあいだの関係性について考察することを目的としている(Descola & Palsson 1996; Descola 2006)。
アリストテレス著作集
Aristoteles Collected Works
「アリストテレス(アリストテレース、 Ἀριστοτέλης - Aristotélēs、 Aristotelēs、前384年 - 前322年3月7日)は、古代ギリシアの哲学者である。
動物は思考できない

「われわれの情念の運動については、わ れわれは思考の能力を持っているので、われわれのうちで思考を伴っていますが、しかし、それにもかかわ わらず、情念は思考に支配されていないことは大変明らかです。というのも情念の動きはしばしば、われわれの意に反しておこりますし、したがって動物におい てもありえるどころか、人間においても激しいこともありえますが、それゆえに動物が思考をもつと結論することはできません」——デカルト からニューカッス ル候へ、発信地:エフモント・ビンネル、1646年11月23日(#587)——第7巻(知泉書館版、Pp.202-203)
神経科学の文化分析

本章では、この研究の途上で収集した文 献のテキストの抜粋(一部)を再掲して、本研究の流れのなかで報告者(池田)がどのような観点から佐藤 研究室で得られた資料を分析しようとしたかの航跡を再現するものである。資料は折に触れて(特に報告書の体裁を立案する時期以降に)ピックアップした断片 的資料をテキストファイルとして蓄積していった。それぞれのトピックのタイトルは適宜インデックスをつけた。インデックスの内容は、引用の中身を正確に表 象するものではなく、引用から報告者の頭(=心)に浮かんだアイディアに関連づけたものである。その後、インデックスのみをあつめていわゆるKJ法——川 喜田二郎による諸要素のグルーピングとグループのインデックス化ならびに上位のグループ化をおこなうプロセス——によって分類し、下記の11のグループに まとめた。空間的分布にはグレマスによる意味の四角形——2組の意味の対立項のマトリクス配列から類似と矛盾の関係を引き出す発見的方法——なども援用し た。
学際研究を継続させる要因
How to continue your useful interdisciplinaries approaches
中世の教養主義の原型である自由七科か ら、近代社会における専門家としての個別の自然科学者の登場、さらには社会科学における価値中立と いう学問的態度の提唱と受容、さまざまな社会科学の領域における数量化革命、そして後期近代社会における学際的研究の開花と、その後の学問領域の再分割化 の過程が生じた背景には、それらの知的営為に課せられた社会的要請があったことが明かである。もちろんどのような社会的文化的活動にもインヴォルーション (内的旋回;Agricultural Involution)とも呼べる、その活動が対象にもたらす意味を再生産させ、その活動自体が複雑化し洗練化してゆく効果も持ちうることがある
自然と文化の位相関 係
On two dimensional topology between Nature & Culture
文化を体現するものとしての「人間」あ るいは「社会」と、自然を体現するものとしての「動物」との関係は、上の4つの位相的組み合わせとその図 示(=比喩的表現)が考えられる。1.境界維持 2.行為主体性 3.越境 4.ハイブリッド である。
近代生態学の流れ
Historical Trend of modern concept of ecology
19世紀初頭に細胞説が席巻し、自然保 護と密接につながる博物学(Natural History)の伝統が大学の伝統からは一時衰退する。博物学の伝統を復権し たのがダーウィンの進化論(リンネ学会発表1858:『種の起源』初版1859)で、これをベースにして生態学が科学的装いをもって登場する(すこし、話 が旨すぎるかも?)。
デカルト劇場
Cartesian Theatre, CT
ルネ・デカルト(René Descartes, 1596-1650)によると(人間しか持たない)意識は、非物質的な「魂」に由来するものである(デカルトによると、魂と身体の結節点は脳の基底部にあ る 「松果体」にあると想定された)。魂は「死せる物質」すなわち「寿命がなくなる身体」に対比するものとしてある。これは、今日では、デカルト的二元論 (Cartesian dualism)あるいは心身二元論 と呼ばれている。では、心(マインド、精神)はどこにいるのか? デカルトは心は、船の中の水夫のようにどこかにいるのではなく、身体全体にみなぎってい るとし た(デカルト『省察』の第六省察、白水社版『デカルト著作集』第2巻、103ページ、『省察』岩波文庫、117ページ:サール『マインド:心の哲学』55 -56ページ)
文化生産のエンジンとしての〈自然〉
Ecotourism in Costa Rica
エコツーリズムは多くの人に多 くのことを意味する。——ティークル卿
科学文献の読解:その批判的視点
Reading of modern science: A Critical Point of view
みなさんは、大学で学ぶ学問には文系 (人文社会)と理系(自然科学)があると聞かされてきたでしょう?しかし、それは嘘っぱちです。いやより正確に言いましょう。文系理系の区分(ないしは チャールズ・パーシー・スノウのいう「2つの文化」)は、はっきり言って歴史的に生まれてきた単なる便宜的な区分で、厳密 に学問を分類することは不可能なのです(→Snow, Charles Percy., 1959. The Two Cultures.)。なぜなら、この区分は近代科学の黎明期に何人かの知識人たちが、理念としての区分を提唱したことから始まりまし た。だが、この知識人たちだけに責任を帰することはできません。理念としての提唱を、現実の区分なのだと勘違いして、現実の学問の運営の原則として峻別す る後輩達──そうです我々のことです──にも多くの責任があります。
医療人類学の下位領域
Academic Genre of Medical Anthropology
医療人類学を4つの領域に下位分類する ことは、もっとも一般的で古典的なものとなった。これは医療人類学領域を形成した学問領域を次の4つ の起源にもとめる立場である。フォスターとアンダーソンの教科書(1977:4-8)では、自然人類学、民族医学、文化とパーソナリティ研究、国際公衆衛 生に分けられているが、それは最も有名なものである。以下の分類には、さらに幾つかの下位に属する学問分野が位置づけられるが、これは私が書き加えたもの である。
「医学概論」の思想

「医学概論は、1966年(昭和41) から衛生学教室が「世話教室」になり、以来、教育、研 究に密接な関係をもつことになった。
じんるいがくのみなさまへ
for our kids anthropologists!
文化人類学とは、人間について、「文 化」 という概念を中心に、経験的な調査法(=おもにインタビューと参与観察)を動員して、 考察する学問分野です。人類学者が考える文化の概念がきわめて多義的であるとともに、人間の生活一般におけるもろもろの 現象を包摂するものであったために、文化人類学はきわめて学際的な学問であることが特徴です。
ハイデガー「アリストテレスの現象学的解釈」

(現在、空欄)
セクシズ ム
Sexism
セクシズムとは性別(sexual difference)にもとづく差別のことをいう。したがって長く、性差別主義とも呼ばれてきた。この言い方は、人種主義(レイシズム)が、人種差別主 義と同義であることと同じである。
バイオポリティクス
"Biopolitics"
現 代用語におけるバイオポリティクス(生—政治学, 生物政治学, biopolitique, biopolitics)は、米本(2006)によると、およそ4つの用語法がある。つまり、ある議論の中で、バイオポリティクスを定義する場合には、そ れらのうち、どれを意識しているのかを明確にしないと、聴衆に混乱を招くことになる。 (1)後期ミッシェル・フーコーによる、ア ナトモ・ポリティークの対語としてのバイオポリティクス (→「フーコーの生権力論」) (1’)いわゆる前期フーコーの『臨床医学の誕生』にみられる、19世紀における「まなざし」の問題 系(→「臨床概念の誕生」) (2)政治学的現象を説明する際に社会生物学や進化生物学の理論を援用する議論としてのバイオポリ ティクス (3)ヴァンダナ・シヴァが提唱する先進国の多国籍企業が開発途上国の住民をもつ「豊かな生物多様 性」をさまざまな技術や法的手段を行使して搾取するバイオパイラシーを正当化させる、グローバルな政治的枠組みを指示することばとしてのバイオポリティク ス (4)先端医療や生物技術を行使する政策としてのバイオポリティクス さて、そのようなことを踏まえて21世紀のバイオポリティクスにはどのようなものがあるのか?
現代生態学者 の科学人類学
Cultural Anthropology of modern Ecologists: Socialization of modern concepts on "Biodiversity"
生 物多様性とそれに関 連する用語と概念が、もともとあった生態学研究の学術的文脈を離れて、人々の生活、学校教育、マスメディア、国際協力や国際会議等のそれぞれの現場で、使 われ(=流用され)定着していく様を、文化人類学の民族誌インタビュー、参与観察、文献検討等の質的方法を通して分析した。生物多様性概念は(1)国際会 議開催などの注目度、(2)「環境と共生する」「地球にやさしい」などの肯定的な価値判断に結びつく社会的イメージの集合的形成、(3)生態学に関係する /しないに関わらず政治運動の宣伝のための動物象徴の偶像(イコン)の脱文脈化的流用により、著しい意味の多様化という副産物を伴って、急速に社会のさま ざまな局面において幅広く定着したことが明らかになった。
動物学者と動物の科学民族誌
nthro-Zoolography between Animals and Zoologists
本 研究の目的は、日本の大学や研究機関に属する哺乳 類動物学者に関する科学人類学的な調査をおこない民族誌を作成する研究である。その研究は、(a)動物の行動を観察する(b)動物学者を観察する(c)人 類学者による布置から構成される3者関係から協働して三角測量(triangulation)する。人間動物学(anthrozoology)という本邦 初のものを目論見る。人間と動物の関係に関する研究の多くは動物ケアという観点からが多く、本研究のこの目的は独自である。三角測量的な参与観察調査を通 して、この新しい学問分野に相応しい現場調査における情動=行動=認識に関する記述法(ethnos-graphy)の創案を目指す。またこの過程を記録 することによりこの記述法についての考察が可能になる。人間と動物の関係についての未来への提案が可能となる。
「医療」の概念についての覚書
concept of medicine
健康と病気に関する人間のさまざまな諸 実践のことを、もっとも広い意味における医療(医学) と呼ぶことができる。
狗 類学(=こういるいがく)の提唱
Introduction to Canisology
犬 (類)による、犬のための、犬自身による研究を狗類学(こうるいがく: canisology)という。この一連の学知は、我々の「生物種」的立場である人 間の立場から動物を研究対象とするアプローチより出発する。このような研究態度は「犬の人類学」の立 場とも言えるものである——人間が中心で犬は観想の対象である。これに鋭く対立する立場が、Eduardo Kohn, How Forests Think: Toward an Anthropology Beyond the Human, 2013である。エクアドル上流のルナの人々の民族誌記述を試みたE・コーンは、人間を他の生命形態に対して特権的に描くことに反対し、代替的記法に挑戦 する。これは、挑戦的な近年の多自然主義(multi-naturalism) と軌を一にするものである。その対立概念ないしは意味の矛盾項は「犬の人類学」の多文化主義だ。
人種主義(racism)

人 種主義(racism):人種差別主義とも言 う。ある人間のグループ(人種)が先天的に劣っており、ある別の人間のグループがすぐれていることは運命ないしは自明であるという考え方。統計や遺伝子を 使った自然科学がそれを正当化したものを科学的人種主義(scientific racism)と呼ぶ。人種(race)とは、人間のグループ(人種)境界が生物学で証明できるという思考法の産物であるが、すべての人種はお互いに生殖 可能——次世代を産み育てることができる——なので、人種の多様性はスペクトラム状に位置づけられるためにすべての人種という種的な差異を科学的に証明す ることは不可能である。人間という人種はひとつである。したがって人種の違いがあるという主張は明確に生物学的に誤りである。
保健医療社会学における「問題にもとづく 学習」手法
The Potencialites of Problem-Based Learning (PBL) in Medical Sociology
PBL 教育は、1969年にカナダ・ハミルトンで誕生し、1980年代に欧米の複数の医学校のなかで、その手法の採否や体系的知識習得型学習 との教育効果の優劣をめぐってさまざまな論争を巻き起こしたが、現在では、自然科学のみならず、社会科学の教育分野で、改良がなされて、多様な変異型をも ちながら、席巻するとは言えないまでも、ほぼ定着をするに至っている。  我が国では、1990年代後半から、医学部教育の現場で試験的に採用され、自然科学教育(とりわけ理工学分野)の初学者への教育や、中学・高校生向けの 学校外セミナーなどの大学の社学連携活動などにその手法が流用され、これもまた多様な展開と現場での実践知の積み重ねが試みられている。
自然保護史
A history of natural conservation
紀元後3世紀にはゲームリザーブ(狩猟 用保護地域)というものがあった(沼田の本では英王 室とかオーストリアのウィーンの森、が例に挙げられてい るが、歴史的には照応しない)。
科学情報を批判的に読む訓練

この練習は、ロラン・バルト『モードの体系』に倣っ て言説の分析をおこなうのであり、(分析のための情報量が多い)図像データはその分析の対象にしない。
生産様式
Modes of production
こ のように考えると、生産様式と生産関係は、ほぼ同義語のように思われるが、先の説明(i)にあるように生産力一般と労働生産力の関係が不明確 である。その理由は、マルクス主義独特の人間の生産すなわち労働の概念を中心に特権化して考える傾向にあり、人間労働がもつ自然的特性という峻別すること ができない自然的生産力を過少評価あるいはオカルト化(=不可知化)してきたからである。
動物という言葉の多 義性について
On Polysemic nature of the term, Animal
人間は本来的に、あらゆる動物である ——ブレーズ・パスカル『パンセ(中)』664、塩川徹也訳、岩波文庫
動物という思想
An Animal Thought, or Philosopie Zoologique
人 間と(それ以外の)動物との関係は、人間と いう動物の存在から出発しているので、人間の起源は動物の起源そのものであり、人間の前に動物はおらず、また人間の後にも動物はいない。したがって、人間 を考えることは動物を考えることであり、動物を考えることは他ならぬ人間を考えることなのである。にも関わらず、人間はつねに、動物というものを〈対象 化〉し、それを〈対峙〉することで、人間としてのアイデンティティを形成してきたことも事実である。人間は動物を見つめることで、動物ではないことを志向 する〈動物〉である。人間は動物を考えることで、自らが動物ではないことを思考する〈動物〉である。
人間と動物の関係性に関するメモランダム
"Animal & Human" In Miscellaneous informantions
「つねづね私は文学を、認識のための探 究というように考えつけているものですか ら、実存の領域を動きまわるためには、それを人類学や、民族学や神話学にまで拡大して考える必要があるのです」——イタロ・カルヴィーノ『アメリカ講義』 岩波文庫61ページ
動物間における「思い込み」
Animals including human being are naturally opinionated....
相 互作用を可能にするのは、2つのプレイヤーの間に 対等の思考―行動のプログラムを具有している。あるいは双方がそのように相手に思い込む場合においてである。ちなみにマット・リドレー[2010:104 -106]は人類史において〈文化という状況〉のもとで、最初に登場したのは狩猟道具の発明とその改良であるという。狩猟道具の発明とその改良は、その後 の人間と動物の間の相互関係を根本的に変革した。これらの事態と関連するのが、人間の〈他者への情動の投射〉と〈交換〉というコミュニケーション様式にあ るという。他者を思いやる気持ちの起源は、現在の我々が信じてい る共感や同情というセンチメンタルなものではなく、狩猟仲間との協働で重要になる他者が何を考え次にどのように行動するのかを推論する能力である。 この能力は、ニコラス・ハンフリー[2004[1976] ]によると、もはや人間の独占物ではなく霊長類と我々は分かち持つものなのである。〈他者への情動の投射〉とは、相手を思いやる気持ち、より正確にはコ ミュニケーションを通して自分の頭の中で〈相手の経験や推論〉を再現(=追体験)することができることであり、〈交換〉とは、自分にあり相手にないものと 相手にあり自分にないものを取り換えることであるが、それらは相互に密接に関連する[リドレー 2010:106-110]。狩猟動物と人間の関係は、文化人類学の研究がこれまで明らかにしてきたように生態学的な有用性の次元を超えたより強い心理的 (あるいは霊的)結びつきが強調されている。しかしながら、実際にはこの関係性は、我々の想像を超えて、狩猟民が植民地情況に置かれようとも複雑に反応 し、そのエートスを変形させながらもしぶとく温存するという強い存在論的関係のもとにある[黒田 2001]
動物優越論
Theriophily
「セ リオフィリー(theriophily =動物優越論)という言葉は、筆者(ジョージ・ボアズ)が1933 年に造語したものであり、動物の行動様式や性質を讃美しようとする観念の複合体を表わしている。セリオフィリストたちが説いているのは次の3点である。 (1) 動物は人間と同じくらい理性的である。あるいは,動物は人間ほど理性的ではなく理性など持たないとしても,人間よりずっと幸福であり,理性的である. (2)わ れわれ人間にとっては自然が残忍な継母であったにせよ、動物にとってはそれが生みの母であり、したがって動物は人間よりも幸福である。(3)動物は人間よ りも 道徳的である」(ボアズ 1990:139)。
人 間と動物の関係性 に関する文化人類学的考察
Anthropological Reconsideration on Animal-Human relations
研 究の目的は、日本の大学および行政ないしは研究 機関に属する哺乳類動物学者に関する科学人類学的な調査をおこない民族誌(ethnography)を作成する研究である。端的には「哺乳類動物研究者の 研究」であるが、その研究は、(a)動物の行動を観察する(b)動物学者を観察する(c)人類学者による布置から構成される3者関係から三角測量 (triangulation)するものである。研究ジャンルとしては、広義の人間動物学(anthrozoology)(Herzog 2011)すなわち「人間と動物のあいだの関係についての研究(the study of the relationships between humans and animals)」と定義され、簡潔にまとめると人間と動物の研究(human-animal studies, HAS)という研究領域に属するものである。エソロジー研究までを守備範囲にいれたこの研究を情動=行動=認識に関する記述法(ethnos- graphy)と呼び、人類学の民族誌を補完すべき方法論の開発を目論見る。
動物との付きあい方 Ver. 2.0

これまでの私の、実験動物の扱いに関す る参与観察、 生物多様性をめぐる害獣駆除論争の傍聴、自然科学の学徒から文化人類学の教師へ変化の中で体験したり見聞してきたりした数々の動物殺しの経験を通して、人 間の動物との付きあい方について思弁を交えて考察します。
人間と動物のあいだの4つの同一化
Four identifications between human being and animal
人 間と動物の関係がどのような位 相にあるのか、ここでフィリップ・ディスコラ(2006)における身体性と内面性から構成される4つの象 限について考えましょう。彼の議論によると、人間と他の種類の動物がどのような世界性――ディスコラは存在論(ontology)と呼ぶ――をもっている かで身体性と内面性から考える必要性を強調します。
動物と人間の自然誌
Anthropological analysis of Comparative Ethno-Natural History
「恩 寵をラテン語ではグラーティア(gratia)というので、中世のトマス・アクィナス(Thomas Aquinas)の思想の要約として、しばしば "Gratia naturam non tollit, sed eam perficit"=恩寵は自然を破壊せずこれを完成する、という文章が引用される。これが神としての超自然と人間を含めての自然一般との関係をあらわし ている。動物はこのナトゥーラすなわち自然の世界にとどまるが、人間はとくに、それを超える営みをすることができる」(今道友信『自然哲学序説』 p.19, 講談社学術文庫、1993年)。
マムと動物世界
Los Maya-Mam y su mundo naturaleza animal
グ アテマラ農耕民マム社会:中央アメリカの高地に位置するグアテマラのマヤ系先住民であるマム人は、トウモロコシとインゲン豆を栽培する農耕民 であり、現在ではトウモロコ シの栽培限界以上の高地ではジャガイモを生産する。農耕用にウマ、運搬用にラバ、ロバなどが飼育されているが、ウシはブタとならんで肥育・乳牛用である。 高地ではヒツジやヤギの飼育が盛んで、ヒツジは羊毛とタンパク源として利用されてきた。しかし、これらの動物はスペイン征服期以降に持ち込まれた家畜であ り、現地の神話に登場する動物表象はシカやウサギ、サルである、後者は、トリックスターとしての役割を果たしている。感覚と現地社会のコスモロジーとの関 係において興味深いことは、鈍重なものとして表象される家畜に比べて、野生動物は非常に勘が鋭く知性的であるゆえに同胞として擬人化される傾向が強いこと である(従って、家畜は植民者の表象になりやすい)。また近年の持続的開発やエコロジー思想の普及は、そのような野生表象のなかに、自然との調和を理想と するマヤ先住民の姿を投影させている。媒介動物病対策のターゲットが家畜であるという意味でも、家畜と野生動物との対比は、あきらかに現代を生きるマムの 人たちのコスモロジーを反映している。
動物殺しの意味論
Semantics on Killing Animals
「神 は彼ら(→創造された男と女)を祝福して言われ た、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(創世記 1:28)/「すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与 える」(創世記 9:3)
動物と奴隷と聖なるもの
On Property rights of animals, slaves, and sacred
「ま ず所有の観念は、ある事物(ショーズ)の観念を想起させる。この二つの観念の聞には、人 間の占有しうるものは事物だけであり、あらゆる事物は占有されうる、という意味において切っても切れない関係があるように思われる。われわれの観念の現状 では、たしかに、所有権がこれ以外の対象にも行使されうるとすることは嫌悪されている。さらに事物というばあい、動物も含まれることは了解されるべきであ り、動物も死せる事物と同じく完全に占有の対象となる。しかし、以上のような限定がなされたのは比較的最近のことにすぎない。奴隷が存在していたかぎり、 奴隷も物権の対象だったのであり、これを所有権から区別することは不可能である。奴隷は、その主人に対してあたかも農地や動物と同じような関係にあった。 少なくともローマでは、一家の息子も、ある意味で同様の状態におかれていた。公的な関係においてはともかくとしても、かれは、所有の対象のごとくにみなさ れていたのである。古くは、息子は所有物返還請求権の対象たりえた。ところが、こうした請求権は、当時市民の共通の所有権を容れるような事物、すなわち流 通におかれた有体物にしか適用されなかった。古典古代においても、父親は正当に息子の所有権を移転することができたし、ユスティニアヌス帝の時代までそれ は窃盗の対象となりえた。この所有権移転ならびに窃盗の観念は必然的に、所有権の対象となる一個の事物の存在を合意している」(p.176)。——デュル ケーム『社会学講義 』
理性的動物の虚構
Hanna Arendt's image of animal rationale
「理 性的動物(animal rationale)という語は、「社会的動物」という語の場合と同じ基本的誤解にもとづいている。アリストテレスは、人間を一般的に定義づけようとした のでもなければ、人間の最高の能力を示そうとしたのでもなかった。彼にとって、人間の最高の能力とは、logos すなわち言論あるいは理性ではなく、nous すなわち観照の能力であって、その主要な特徴は、その内容が言論によっては伝えられないところにある」(アレント 1994:48)。
基本用語集:動物学者と動物の科学
Glossary: Anthro-Zoolography between Animals and Zoologists
動 物学者は研究の現場で動物にどのように接するので あろうか?それを明らかにするために、野外において動物学者の行動を観察するだけなく、どのような意識をもっているのか/どのように研究を遂行してきたの かについて(動物を除いた関係者に)インタビュー調査が必要となる。その結果、インタビューからの答えにより研究者の行動が完全に明らかになるのではな く、実際に現場で観察し、また先行研究を通して指摘されている事柄との検証を通して研究者集団の歴史的、文化的、社会的差異に研究者は気付いた。自然科学 の定式化された枠組みは、それらの差異を少なくするが、同時に現場では行動の多様性が豊かにみられることが明らかになった。
動物裁判
Animal Trial as Mirror
ヨー ロッパで広く行なわれた動物裁判は、人間に危害を加えたり、また人間と共同して罪を犯したと認定されたとき、人間とまったく同じ 法的手続きを通して(つまり完全に“擬人化”されて)世俗ないしは教会の 裁判所で裁かれたという。極端な例では、裁判所の書記が動物に対して 判決を読み上 げたり、動物を拷問してその叫び声を自白とした場合もあった(池上 1990)。
動物実験
animal experiment, experimental trial by using animals insted human object
動 物実験(どうぶつじっけん)とは、科学的成果を得るための動物をつかったあらゆるタイプの生物実験であり、虐待(abuse)でないものをい う。この場合の動物とは、一個の生物としての「全体性」をもっているものであり、人間を含む動物から摘出した、細胞、組織、臓器、あるいは身体の一部のこ とを想定してない。動物実験に使われる動物は、集合的に実験動物(experimental animals)と総称される。
マヤ人の病気観と動
Cosmovicion Maya sobre las enfermedades y los animales
「私 たちはカテゴリーにもとづいて世界を秩序づけているが、カテゴリーを自明のものとして信じて疑わないのは、それらがただあたえられてあ るからにすぎない。カテゴリーは私たちの思考に先立って存在するひとつの認識論的場を占めているから、おどろくほど強固である。しかしながら、経験を組織 する異質な方法にぶつかると、私たちは手持ちのカテゴリーのもろさを感じ、すべてが瓦解しそうになる」ロバート・ダーントン[1984]『猫の大虐殺』海 保真夫・鷲見洋一訳、p.243、岩波書店、1986年。
動物における安楽死(安楽殺)
On Euthanasia for Wild and Experimental Animals
動 物研究者にとって、動物を殺し、そこから得られる科学的知見を収集することは基本的に ルーティンになっている。しかしながら、なんでも闇雲に殺害すればよいというものではない。むしろ、殺獣方法を統制管理することは、そこから得られる動物 個体からのデータの管理にもつながる大切なことである。2009年に日本哺乳類学会が、そのことにつきガイドラインを作成し、公開している。
〈動物という思想〉
Animals are "good to think with" and are just a example of human need to classify
承前→「人間と動物の関係性に関する文化人類学的考察
野生動物とのつきあい方

生 物多様性保全をめぐる議論に登場 するツキノワグマとジュゴンという2種類の動物と現代日本人の間の「つきあい方」に関して考察する。これまでの生態人類学と象徴人類学が扱ってきた人間と 動物の関係を紹介しつつ、人間がもつ動物に対する菅原和孝の「思い籠め」という認知過程を手がかりにして、ツキノワグマの「抗議活動」とジュゴンの法的 「当事者適格」について検討した。そこで明らかになったのは、ツキノワグマとジュゴンに関わる様々なメタファーの交錯があり、それを人間の側のシャドーボ クシングの実践と表現できること。そして、メタファーの操作が重要となる想像的関係に与る社会的事象と、個体数の把握や現実の邂逅そして保護管理という存 在論的な媒介関係を表象するものとして、この実践を捉えることができると私は主張した。
カントにおける人間と動物の関係
Introduction to Kantian animals and animal Kant
「わ れわれには動物(Tier)に対する直接的義務は存在しない。動物に対する義務は、人間性(Menschenheit)に対する間接的 義務 (indirekte Pflicht)である」(Kant 1992:S.256) Immanuel Kant, Eine Vorlesung ueber Ethik, 1990, Philosophie Fischer. 『倫理学講義』1775-1780年頃の講義
実験動物の安楽死処分に関する指針(写し)

→「研究機関等における動物実験等の実施に関する基本指針(写し)
ケイパビリティ・アプローチにおける動物の範疇化の失敗
We cannot think as thou, the animals, may think...
AIU (キャンベラ)でおこなわれたタンナー(ターナー)講義の、ヌスバウム、マーサ「「同情と慈愛」を超えて」『正義のフロンティア』神島裕 子訳、 Pp.371-463、法政大学出版局、2012年は、ケイパビリティ・アプローチという観点から、「動物」の尊厳ある命(と生活)を保障すべき、人間側 への提言としては、非常に力強いものである。しかし、彼女が擁護すべき「動物」の範疇とは、ライオン、犬、ヘラジカに加えて、ミミズや蚊などが含まれる。 しかしながら、依然として、そこでケイパビリティに基づく擁護の前提になっているのは、脊椎動物のうちでも主にほ乳類がその「想定される動物」である。も しかりに、あらゆる動物が包摂されるなら、それは種の多様性を前提にする生態環境の擁護概念に結びつくだろうか?もし、そうだとしたら、今度はケイパビリ ティ・アプローチを植物にまで拡張しなければならなくなる。このような混乱が生じるのは、彼女が動物という時に、じつはどのようなものをケイパビリティ・ アプローチで擁護すべきかの前提ないしは「モデル動物」(=私の邪推では、脊椎動物のうちでも主にほ乳類)があり、それに基づいており、そのことを読者に きちんと明示せずに、御自身の議論を展開されているからである。
メタモルフォシスとアナモルフォシス
Between metamorphosis and Anamorphosis
現 在のところ、私たちが知っている擬動物化の技法は、変身=変態(metamorphosis)と異種扮装 (anamorphosis)である。変態は身体が変形して元の身体とは別の身体に組織編成することであるのに対して、後者の異種扮装には、例えば人間が コスプレで虎になるのだと称して、虎縞の毛皮のビキニを着て、つけ鼻をつけ、鼻の横に髭を描けば、それは立派な異種扮装になる
黒澤先生講義録

このページの資料は、大阪大学大学院研 究科向けの2010年度「研究倫理」の授業のうち「研究倫理・動物実験の現場から」(医学系研究科実験動 物学教室の黒澤努先生)の授業ノートから、池田光穂が(補筆して)まとめたものです。
動物を殺す必要性
Necessity for killing animal
「し かし未開人が、あらゆる動物の生命を脅かさないで済すことは、もち ろんできることではない。そのあるものを食べるか飢えるかのどちらかでなければならず、彼が死ぬか動物が死ぬかのいずれかでなければならない、という大問 題に行きあたった場合には、彼も信仰上の遠慮をおさえて余儀なく動物の生命をとるのである。同時に犠牲とその親族を宥めるためには、可能なことなら何でも する。殺す行為中においですらその動物に対して尊敬の念を表わし、死を要求する当方の責任を弁解し、あるいはひたすらその責任を覆いかくしたりなどしべ遺 族を正当に取りってやると約束するのである。このようにして死から恐怖を取り除くことによって、犠牲になる運命を甘受させるようにこれを宥め、またその仲 間の者どもも殺されるためにやって来るよう誘なうのである」フレイザー『金枝篇(4)』永橋訳(1967:81)
動物間どうしの擬人化
Raven and horned owl" by Gyujin Takamura
「人間のほしがるゼゼコちゅうのはコレ ヤ」——篁 牛人(たかむら・ぎゅうじん)
ムブティの狩猟民における「動物残虐趣味」
On sadism toward animals among the Mbuti people
「私 がピグミーたちから心の隔たりを最も強く覚えたのは このようなときである。彼らは瀕死の状態にある獣のまわ りに集まって、指差したり笑ったりした。一人の九歳ぐら いの男の子などは地面に寝転ろび、グロテスクな身振りで// シンドゥラの最後の腕きをまねて見せた。男たちは、それ ぞれヤリを引き抜き、こんなちっぽけな奴を恐がるとは奇 妙なことだ、とへらず口を叩きながら、引き裂かれ血にま みれた死体を蹴った。そのうちマイペの母親、がやってきて、 血まみれの後足をつかみ、肩越しに背中の緯の中に放りこ んだ」(タンブール 1976:85-86)。
死は帰結であって目的ではなく

"[N]o animal must ever tyrannize over his own kind. Weak or strong, clever or simple, we are all brothers. No animal must ever kill any other animal. All animals are equal"--Animal Farm, by George Orwell, 1945.
パターンを作り出す動物
Pattern Making Animal
人間の心は、パターンを作り出す機能に 秀でている。 エドワード・デ・ボノの、の""'The mind as a pattern-making system.'から引用してみよう
コンパニオン・スピーシズの問題系
 Problematique of the "Companion Species"
日 本語の翻訳者たちがひねり出した夫婦や「つが い(番)」(=動物のカップル)をさす「伴侶(はんりょ)」の訳語は、いっけん適切のようにみえるが、ダナの理論から見るとじつは誤解を招くものである- ---そもそも漢字が人偏(にんべん)(!)である。それは、ダナが、人間と動物あるいは人間と機械の間の関係について長年考察してきた学術的な趣旨と大 きく相反するからである。コンパニオン・スピーシーズという語は、たしかに日本語では、犬と人間は仲が良くまるで「伴侶」のような関係だと言いたい気持ち になる。しかし、それはハラウェイの論法にしたがうと、人間の男女とりわけ夫婦の「よい」関係性を想起してしまう点でイエローカード(=誤解を招く翻訳) なのである。
ヒューム「動物の理性について」
David Hume's Reason of animals, from A Treatise of Human Nature, 1739
Next to the ridicule of denying an evident truth, is that of taking much pains to defend it; and no truth appears to me more evident, than that beasts are endow’d with thought and reason as well as men. The arguments are in this case so obvious, that they never escape the most stupid and ignorant.
バリ島における犬嫌悪
On Balinese Dog
「動 物的と見なされる行為に対するバリ人の嫌悪はか なり強いものである。赤ん坊はこのため這うことができない。近親相姦はほとんど認められていないが、それでも獣姦よりも軽罪である。(獣姦に対する処罰は 溺死であるが、近親相姦に対するそれは動物のような生活の強制である。)たいていの悪魔は彫刻、踊り、儀礼、神話において現実の、あるいは空想の動物の姿 をとって表わされている。思春期における主要な儀礼では、子供の歯が動物の牙のようになるのを防ぐため、歯にやすりをかける。排泄行為ばかりでなく食事行 為も、動物性との関連から嫌悪すべきもの、ほとんど淫らな行為と見なされ、急いでこっそりと済ますべきものとされている。転ぶことや、無器用な仕草までこ ういた理由から悪と見なされる。雄鶏と、牛やアヒルなどのバリ人の情緒としてはあまり意味をもたない幾つかの少数の家畜を除いて、バリ人は動物を嫌悪し、 たくさんの犬に冷淡なだけでなく、恐ろしく犬を残酷に扱っている。雄鶏と一体になることによってバリの男は、理想の自分や自分のペニスばか りでなく、同時 に彼が最も恐れ憎み、また愛憎のまじった存在であるがために魅了されている力、「暗闇の力(the Powers of Darkness)」と一体化しているのである」。(ギアーツ「ディーププレイ」 Pp.400-401;『文化の解釈学 II』吉田禎吾ほか訳、岩波書店、1987年)
擬人化
anthropomorphism, personification
「すると、驢馬の口が開かれて、それ は、われらの主の力により、人間のごとく語り、ユダにいった」——「使徒ユダ・トマスの行伝」(荒井編 1997:326)
獣姦について
On Bestiality
獣 姦(bestiality)は、人間と人間以外との「性行為」の意味である。 しかしながら、性行為を、目的論的に、1)生殖のため、と、2)快楽を得るため、という2つの機能に分類すると、1)の要素が欠落しているために、日本語 では強姦(rape)のように、否定的な価値を負わされて、この漢字(姦=反道徳的な不正ないしは私通)が充てられたのだろう
社会生物学
Sociobiology for Medical Anthropologist
利 他的行動とは、ちょうど「働き蜂」が自らは子を 作らず自分の親や兄弟などの子育てを行なうような、<自己の個体の遺伝子の保持することを犠牲にして他者に利するような行為>をいう。現代進化論では、行 動は遺伝子に支配されると考えるが、この場合、利他個体は子孫を作らないので、その行動を発現させる遺伝子は子孫に伝わらず、利他行動の進化は不可能とな る。この問題は1964年にW・ハミルトンが、自分の遺伝子を直接子孫に残さなくても、その血縁者を助け血縁者が多数の子を作るならば、利他行動は進化す る、という数学的理論(包括適応度)を提示して「解決」をみた。これ が刺激となって、社会生物学における理論的研究が飛躍的に発展した。
動物学者と動物の科学民族誌:各年度報告
Anthro-Zoolography between Animals and Zoologists, Years 2014-2016
生 きている動物とその死骸遺物の間に研究者は大きな峻別を行わな いことが明らかになったので、(i-a)現存動物の範疇を拡大し、(i-b)想像上の動物や、かつて存在した化石恐竜などの、(1-c)現存しない動物、 という範疇で、動物学者の範疇を聖書学等の古典学者やSF作家や、古生物学者や考古学者に拡張し、主に文献や博物館調査などを通してその言説分析をおこ なった。また「動物としての人間」という観点から、人間の 嬰児殺しと老人虐待についての進化生物学の成果を利用しながら研究論文を報告した。あわせて(動物学者を含む)人間と犬の関係についての共進化 (coevolution)学説の可能性 について検討した。研究分担者のO氏は、小型哺乳類であるトガリネズミ類の国際的集会に招待講演者として登壇し講演をおこなった。その際に、トガリネズミ 類に関するさまざまな文化圏に属する研究者と意見交換して、現地の宗教や民話あるいは、殺傷をともなうサンプリングに関する生命倫理規範の文化相対性につ いて意見を聴取している。また同じく研究分担者のT氏は、これまでに収集した映像資料と文献資料データの整理と執筆をおこなった。その成果は書評論文とし て成果報告している。総じて、それぞれの研究者は個別のテーマをもち、動物と(生物医学者を含む広義の)動物学者の関係について考察を深めた。研究代表者 は相互の連絡をとりながら最終的な報告にむけた調整をしている。
コロンブス航海誌にみられる(新大陸と輸入)犬に関する記述
Mis cuchos-Xolos grotescos puros mixicanismos que yo amo
「こ の島にも、また、他の島々にも、四つ足の動物 はまったくといっていいほど見当たりません。例外として、わたくしたちの国にいるのと同じような、さまざまな色をした何種類かの犬がいます。わたくしたち が、ゴスケと呼ぶ大きな犬を大きくしたような姿か たちをしています」――ディエゴ・アルバレス・チャンカ博士がセビリア市会へ宛てた書簡(平凡社版『完訳 コロンブス航海誌』p.325)。編訳者・青木康征、1993年※「ゴスケ」は現在の正書法では gozque, あるいは perro pozque と表記する。
ハーツォグ・ノート

※ この章(『ぼくらはそれでも肉を食う』の第6章)は、大切に育てられて死闘が終わればあっけなく捨てられる闘鶏と、鶏肉専用に品種改良されたコッブ= ヴァントレス社のニワトリが養鶏場で大量にまさに非人道的に飼われて工業製品のように加工されてゆくさまを対比的に描くことが目的とされている。すなわ ち、どっちが倫理的かという審問を、軍鶏とブロイラーを対位的に記述することで、読者に考えさせる修辞が採用されている。
人びとに尽くす動物たち
animals that offer the contribution for human society
万 葉集第16巻「乞食者の詠二首(ほかひひとのう た、にしゅ)」には、鹿と蟹が、人間(歌の場合は「おほきみ」)に尽くす様を詠んだものである。このことを民俗学の歴史において最初に指摘したのは、折口 信夫(おりくち・しのぶ, Shinobu Orikuchi, 1887-1953)その人である。
非人称化仮説の可能性と限界
Feasibility and Limitation for "De-Humanization Hypothesis, DHH" of the murder/butcher/killer
動 物殺害(あるいは人間殺害)を可能にする条件とし て、殺害者は、対象となる犠牲動物・犠牲者(=被殺動物・被殺者)をモノ化したり、非人間化したりするような「心理的手続き」は必要だろうか? 我々は、 この種の同種間あるいは異種間の「冷血な行為」を可能にするのは、しばしば、「同類としての感情」が抑圧ないしは消失しているからだと説明する。このこと を殺害者の「非人称化仮説(De-Humanization Hypothesis, DHH)」と呼んでおこう。
テクノアニミズムという概念
Poverty of Takuji Okuno's the concept of "Techno-Animism"
し かしながら、完璧なマシーンとしての生物――映画『エイリアン』のなかの医療担当アッシュの言葉――このようなアニミズムを導出する考え方を 人間――そ して奥野――は棄て切れない。デカルト的身体観――身体と心の二元性が特色で、それぞれの属性を対比的に描いたために合理主義者がしばしば夢想するファン タスマ(幻影)の例にしばしばあげられる――の問題を的確に言い表した重要な比喩である。士郎正宗(1961-)原作のマンガ・アニメ作品『攻殻機動隊』 の英語タイトルは ghost in the shell だが、これはギルバート・ライルのこの表現に由来する(ユダヤ人ジャーリストであるアーサー・ケストラーの同名の評論(1967)がある)が、ネットワー クのゴーストは、明らかにデカルト的でオカルト的な心の概念を隠喩するテーマと議論がさまざまなところで登場する。
ヤノマモ(ヤノマミ)における犬と他の動物たち

"Fusiwe was very fond of dogs. For them dogs are almost humans. So many times I have seen women giving milk to dogs. When dogs die, they often weep and burn their bodies in the shapuno. Then they collect up the burnt bones and prepare them for the feast of ashes. Then they go hunting, as if it were for the death of one of their companions. They prepare. the bones, but they do not eat them. They mix the ashes with banana min gau in an old cuia, pour it all into a deep hole dug near to the big posts of the shapuno, and fill it in. They then break the cuia and burn it. The master of the house offers the game and the rest of the mingau to those who have come to take part. He does not eat, just as though one of his relatives had died. Those who have been invited make a mingau some time later and return the invitation. Thus they remember their dogs; but they do not always make the feast of the ashes." (Biocca, 1996:170)[ヴァレロ(上)1984:231-232]
狩猟仮説
unting hypothesis
狩 猟仮説は、人間の進化が、初期の巨大ほ乳類 の狩猟活動により促進され、(淘汰圧にも影響を与え)他の類人猿とは異なる進化をなしとげたとみる仮説である(初出の出典を探しています)。この仮説は、 リーと ドゥボア編の『狩人としての人(Man the hunter)』1968 という論文集がこの種の議論の嚆矢にあたるものとされている。1万3千年前から8千5百年の新太陸北部のクローヴィス文化――これは南北両アメリカの先住 民の共通の祖先と言われている――では、独特の形状のクローヴィス尖頭器がマンモスの骨と発見されて以来、新大陸における大型のほ乳類を効率的に狩猟して 人口学的に大きく栄えたのではないかと言われている(リドレー 2000:295-296)。そして、今日危惧されている地球上の生物多様性の減少の原因は、この時期に効率的な狩猟道具を発明したことにより人がそれま での野生動物により「食べられる存在」から野生動物を「食べる存在」になったことが原因であるという主張も登場するようになる(ソウルゼンバーグ 2010)。
ラカンドン・コスモロジーに関するノート
Cuaderno sobre la cosmología o cosmogonía de los Lacandones maya
"Dado que compartíamos la misma situación y el mismo sentimiento, ¿por qué tendría que haber discrepancia entre nosotros?" --Kenzaburo Oé
ダーウィンの犬、あるいは野蛮人の有用性の天秤について
On Useful Dogs of Tierra del Fuego comparing with their old women
「飼 育動物の子孫の遺伝的形質をかつて考えたことの ないほど野蛮な未開人がいたとしても、特殊な目的のために彼らにとって特に有用な動物は、彼らが受け易い飢餓やその他の災難の間にも注意して保存されるで あろう。そしてこのような選ばれた動物は一般に劣った動物よりも多くの子孫を残すに違いない。従ってこの場合にも一種の無意識的淘汰が進行していることに なる。フエゴ諸島(Tierra del Fuego)の未開人でさえ動物に価値を認め、食料欠乏のときに、犬よりも価値のないものとして彼らの老婦を殺して食うのである」(ダーウィン 2009:28)。
言語の人類学的側面
Anthropological aspects of language : animal categories and verbal abuse
(論文研究ノート)
意図の表現について(解説編)
On Statement of one's Intention: Commentaries
(1) 我々はある種の行為をしている最中にあるいはその後に「なぜその行為をしている/したのですか?」と質問されて、正しく答えることは できるだろうか? その時に答えている内容は、その行為の前に思ったこと(=その行為の前の意図)と照応していると言えるだろうか。(→(4)の問いと関 連する) (2)動物の行動を見て――以下の「鳥にそっとしのびよる猫の動作」を参照――動物は「意図」をもつと言えるだろうか? (3)アンスコムによると、動物の行動は「意図の表現」とは呼べないが、それは正しい主張だろうか? 動物を他人と置き換えてみて、他人の 行動もまた「意図の表現」とは呼べないだろうか? (4)アンスコムの「意図する行為」は、ある意味で用いられる「何故?」という問いが受け入れられるような行為であると言うが、その提案を 受け入れることができるか? 受け入れられるのであれば、なぜ? また受け入れられないのであれば、その理由を説明しなさい。(→(1)の問いと関連す る)
ニコラス・ハンフリーによる知性の定義
On Social function of animal intellect
ハ ンフリーによると、そのような知性の適 確さは、動物が、自然環境や、他の個体などのような社会環境のなかでのみ発揮できるという。「社会の複雑さと個体の知性の間に正の相関があると言えること が必要である」(ハンフリー 2004:28):My central thesis clearly demands that there should be a positive correlation across species between 'social complexity' and 'individual intelligence' . (Humphrey 1976:316).
グルメと蛇
This forked tongue explains why all these animals are so dainty in their food!
Of course the Vivipara as well as these creatures have this power of perception(indeed, the enjoyment derived from practically all edible dainties takes place while they are being swallowed and is due to the distension of the oesophagus...); but whereas the rest of the animals have the power of perception by taste as well, these are without it quadrupeds, lizards (and serpents too) have two-forked tongue, the tips of which are as fine as hairs. Seals also have a forked tongue. This forked tongue explains why all these animals are so dainty in their food!! (Aristotle, On the Parts of Animals, the Lobe edition , p.393 & 395).
コッホの[必要]条件
Koch's postulates, Henie-Koch postulates
1.すべての病気の患者にある特定の生 物(ここでは微生物)が認められねばならない 2.特定の生物は純粋に分離培養することができ、それは継代——世代を越えて繁殖し続けること——培養される必要がある。 3.特定の生物は感受性のある——ある限られた生物種のみに感染するので病気に罹る可能性があることをこう言う——健全な動物に病気が引き 起こさねばならない。 4.その病気になった動物から同じ生物体が純粋培養で再び分離されねばならない。
嬰児殺しと棄老の文化的解釈
On Infanticide and gronto-cide
この論文は、動物殺しの論集において、 人を故殺する こと、とりわけ子殺しと棄老について考察することを目的とする。動物殺しはHRAFにも項目として収載されておらず人類学の研究カテゴリーとしての正当な 位置づけは確立していない。それゆえ動物殺し概念を民族誌学上に適切に位置づけるために、人間の殺害事例を参照することで、文化としての殺しの諸相を明ら かにした。まず、進化生物学から子殺しと性比の不均衡(トリヴァース=ウィ ラード仮説)を、次に、イヌイトやディネの老人殺しや終末期状況の民族誌記述に おける視座の違いや研究者の文化的偏見について論じ、最後に、アチェの民族誌の故殺事例を子細な文化の文脈の中で解釈した。そのことにより、自然と文化の 境界に位置する人間存在を、群棲する動物と位置づけるポリス=国家的動物と結論づけた。それは、人間が文化に基づく社会を営みながらも、つねに自然と文化 の境界を〈分離する実践〉に裏付けられた存在だからである。(2016年7月19日)論文:『動物殺しの民族誌』シンジルト・奥野克巳編、昭和堂(担当箇 所:池田光穂「子殺しと棄 老:「動物殺し」としての殺人の解釈と理解について」Pp.57-97)365pp. + ix、2016年10月 CSCD_Mikeda_Infanticide_gerontocide_2016.pdf with password
見えない関係
Invisible Relations
「出産の時がやってくると、産婆はその 女性を居間の床の上に寝かせ、腹をこする。子供が生まれるやいなや、産婆は臍の緒を切り、後産を取り除 く。これは最初は汚い布で、次に立派な布で包まれる。なぜならそれは赤ん坊の兄弟だからだ。それは動物の手の届かない家の階段とか、ストーブの下に埋めら れる。すぐにそれは土になるが、その霊は空に昇り、その子供のモリン・オリンとなる。」
サイバネティクス
Cybernetics, or, Control and communication in the animal and the machine
人間から、卑しくて人が嫌がる仕事(タ スク)を奪 い去ることが人間に対してとても善いことになるのか、あるいはそうではないのか、どうも私には分からない——ノーバート・ウィナー(1947年、メキシコ 市)
イルカの知的行動

「海の動物の中で話題の最も多いのはイ ルカであって、それらはイルカのおとなしくて馴れやす い性質を示しているが、タラスやカリアやその他の地方での少年に対する愛情や欲情の実例さえあげている。またカリア地方で一頭のイルカが捕らえられて負傷 したとき、イルカの大群が一度にどっと港へおしよせてきて、漁師が捕らえられたイルカを放してやるまで去りやらず、放してやると、みんな一しょに出ていっ たという。また小さいイルカたちには必ず大きなイルカが一頭つきそって守っている。すでに大きなイルカが泳いでいて、死んだイルカが深みへ沈みそうになる と、その下へ泳いで行って、背中にのせて持ち上げているのが見られた。まるで死んだイルカに同情し、他の肉食動物に食われないようにしてやっているようで ある。‥‥」『動物誌』(下)p.113[ベッカー版p.631](紀元前4世紀)
細胞の擬人化
anthropomorphism or personification of the cell
細胞の擬人化は、漫画家・清水茜による 連載漫画『はたらく細胞』(2015年〜)によってなされた。
ホワイトヘッドの自然
Whiteheadian Concept of Nature, 1919
「自然とは一体何であるのか。われわれ は自然科学の 哲学について検討してみなければならない。自 然科学(natural science)とは自然に関する科学(science of nature)である。では、自然とは何で あるか。/ 自然とは、われわれがいろいろな感覚を通じての知覚のなかで観察するものである。この感覚知覚 (sense-perception)によって、思考ではない何ものか、思考に対して自己充足的な何ものかを意識し ているのである。思考に対して自己充足的なものとしての自然のこの存在特性が、自然科学の基礎に 存在している。このことは、自然が一つの閉鎖系(closed system)と考えられ、その相互諸関係は、 それらが考察されているという事実の表現を必要としない、ということを意味している。/ したがって、ある意味で、自然は思考と無関係に存在している。わたくしはたとえこう言明したに せよ、いかなる形而上学的宣言をも意図しているのではない。ただ、思考について語らずして、自然 について考察しうるということを意味しているにすぎないのである。このとき、われわれは自然について いて「同質的(homogeneously)に考察していると言えよう」
知性的存在としてのクジラとイルカ

「西欧の動物に対する取り扱い方は、そ の動物に好ましい性質をあてはめるかどうかによって大きく影響される。例えば、1960年代に登場したイルカの行動に関する多くの非科学的な論文が、たし かに「われわれがやっと克服し始めた宗教的狂信に近い」(Prescot 1981:131)誤った考えを広める結果となった。その知能と社会行動、魅力的な個性、独特の生活様式、および自然史に関するわれわれの無知ゆえにつき まとう神秘性のために、「鯨は他の動物よりも大きな権利をもっている」というスカーフ(Scarff 1980)の意見は、その典型である。魂をもたない動物に対して西欧人が示した責任感は、一貫性が欠如していたとしか言いようがない。」(フリーマン編 『くじらの文化人類学』p.142)
ニッチ構築
Niche Construction
ニッチ(niche)あるいは生態学 的ニッチ/地位 (ecological niche)とは、ある特定の生物の種が、生態的環境のなかで占める位置づけである。したがって、ニッチ構築(niche contruction)とは、生物種が同一種ないしは関連する生物種と共同して、固有の環境をつくりだして、生存の可能性を広げることを意味する。
倫敦の狐
Fox in London
現在、倫敦(1)市内(都市部)には1 万から1万2千匹のキツネがいるらしい(2)。上のYou Tube の画像(3)の分析を通して、主に、(i)キツネの「気分」の観点――ウィトゲンシュタインなら「君はキツネではないので、キツネの気分などわからないだ ろう」(4)と諭されるかもしれない――からと、(ii)画像の末尾で何かしらの「言葉」をつぶやく撮影者の「気分」――再びウィトゲンシュタインなら 「君はこの撮影者ではないので、この撮影者の気分などわからないだろう」(5)と再度諭すだろう[か]――を想像して、人間がおこなう動物の「擬人化的解 釈」(6)について考察してみよう。
生物における対称性破れとその原理
On pontaneous broken symmetry in vital organism
ピエール・キューリーの対称性/非対称性の原理というものがある。 1)「あることが原因となって、ある結果(=効果) が生起する のであれば、そのときその原因のもつ対称性は生起した結果(=効果)のなかに再び現れる」 2)「ある結果がある非対称性を示していたら、その ときこの非対称性はそれらの結果をもたらした諸原因の中に反映されて いるであろう」 つまり、《対称的な原因(=事由)は、それと同等な 対称性を もつ結果(=効果)を 生起させる》ということである。 この原理に、生物現象において理論的な意味でこの原 理に異義を掲げたのは、アラン・チューリングだと言われている。彼の業績に関する、スチュアートとゴルビツキーの解説を引用する。
チャールズ・R・ダーウィン『人間の由来と性に関連する淘汰』(1871)ノート

The descent of man and selection in relation to sex, London, John Murray, 1871, 2nd.,1882./『人間の進化と性淘汰1』長谷川眞理子訳,文一総合出版,1999.[初版訳],『人間の進化と性淘汰2』長谷川眞理子訳,文一総 合出版,2000.[初版訳]
プレーリードックとベルヌーイ効果
Prairie Dog and Bernoulli effect
プ レーリードックの巣穴は一方が煙突形(=クレー ター側)に、他方がす り鉢をかぶせたの土手形の窪地穴(=ドーム側)になっているという。この理由は、長年、洪水による浸水から防ぐなどの説明がなされていたが、スティーヴ ン・ヴォーゲルらが1973年 に、プレーリー ドックがベルヌーイ効果を利用して、ドーム側から吸い込まれクレーター側のほうに空気が効率的に流れるようになっていることを「証明」——妥当な解釈と換 気効率の測定—— した。ベルヌーイの定理により、ドーム側の空気の内圧と外圧はそれほど変化がないが、クレーター側の内圧と外圧の差は大きい。すなわちプレーリードックは (空気がもつ粘性と気流の性質により)ドーム側からクレーター側の方向に、巣穴の中に常に新鮮な空気が流れるようになる。この場合、プレーリードッグ自身 は、ベルヌーイ効果のことを知らないが、連中(=プレイリードック)の遺伝子は、経験的にベルヌーイの法則を利用する「術」を知っていたこ とになる。
能産的自然と所産的自然
Natura naturans and Natura naturata
ル ネサンスの自然哲学の考え方の中には、すでにこの 自然は二重の位置を与えれていて、自然に対する神の調停機能の理解として、神は「能産的自然(natura naturans)」、現象世界は「所産的自然(natura naturata)」と捉えて、この矛盾の一致を、神において認識するというものがある。知恵ある無知という考え方を提示したニコラウス・ クザーヌスがそ の例であるが、この用語を明確に区分し、能産的自然に神の位置をあてはめたのはスピノザだという。しかし、この2つの用語の最初の提唱者は、ヴィンデルバ ンドによるとアヴェロイズム(Averroism、アイブン・ルシュド=アヴェロエス ( Averroes, 1126-1198)中世の偉大なアリストテレス註釈者による哲学や思想)に由来するものだという
自然権
Ius naturale, natural rights
「人 間と法とのこの同一化は、古代以来の法思想の悩 みの種だった合法性と正義との差を解消するもののように見えるが、これは〈自然の光〉(lumen naturale)もしくは良心の声とは何一つ共通するものを持たない。自然権(ius naturale)もしくは歴史を通じて啓示された神の掟の権威の源泉としての〈自然〉もしくは〈神〉は、〈自然の光〉(lumen naturale) もしくは良心の声を通じて、その権威を人間自身の内面に告知すると考えられているのだが、しかしこのことは決して人間を法の生きた具現にはせず、反対に法 は人間に同意と服従を要求する権威として人間とは異なるものとされていたのである」[アーレント 1981:304]。

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